鹿島美術研究 年報第5号
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像の様式的性格を思えばやはり康助の存在が浮上してくる。康助については,これまでとかく慶派の祖たる奈良仏師としての性格を中心に説かれることが多く,その作風もそうした視点からのみ想定されがちであった。しかし,彼の事績はその多くが宮廷貴顕を願主とする造像であり,当代の円・院派のそれとさほど傾向を異にするものではなかったのである。すなわち,当代一般の中央仏師としての康助の側面である。定朝仏を仏の規範と仰いだ宮廷貴顕の造像に彼が携わり得たことは,彼の作風がその審美眼にかなう定朝様に準じたものであったからに他なるまい。ただ,彼の奈良仏師としての側面も無論重要で,事績の二面性を勘案しつつ彼の作風は推定されるべきであろう。先述した本像の,言わば複合的な作風は,事績から推定される彼の作風に合致するように思われる。さらに,両脚部衣文形式にみた図像との関係も,図像への造詣の深さが指摘される康助の作風に相応しいと言えるのではないだろうか。本像が康助の造立か否かは,後代慶派作例へとどのように展開していくかを中心に,光背,台座を含めてさらに検討を進める必要がある。しかし,いずれにせよ,康助の事績は今後新たな視点から見つめ直されるべきであり,その中で本像の存在は改めて重要性を増していくものと考えられる。2.大日如来像研究の成果として平安・鎌倉期の大日如来彫像を広く検討した結果,円成寺像以後の慶派作例とそれ以前に一般的な定朝様作例との間には,形式面でかなり明確な相違が指摘できることが確認された。大日像に於ける慶派形式の成立に,平安初期密教彫像や図像がどのような意義を持つのか,今後さらに検討を重ねる必要があるかと思われる。実査した多くの作例の中から,主要なものを以下に報告する。①大阪・金剛寺金堂像,多宝塔像承安2年(1172)阿観開創の金剛寺の草創期造像で,金堂像は金堂創建の治承・養和年間(1172■82)頃,多宝塔像は多宝塔修造の建久2年(1191)頃の造立と推定される(『金剛寺文書』)。両像共に光背中に金剛界三十七尊を配し,金堂像は台座に獅子を置く,共に注目すべき像容である。覚毀登場以後の新義派に於ける像容を継承しているものと推察される。多宝塔像については,「大阪・金剛寺多宝塔大日如来像について」(『ミュージアム』445,昭和63年4月)参照。②千葉県柏市・覚王寺像-186-

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