3.今後の展望として小像ながら光背・台座を完備した佳品。像内に下記の墨書銘があり,干支及び作風により天仁元年(ll08)か仁安3年(ll68)の造立と推定される。いずれにせよ,定朝様大日像の典型作として貴重である。「三河永珍/戊子/九月十六日」「造立仏子六郎四郎」(像内胸部・膝裏部墨書)③函館市・高野寺像もと高野山谷上大日堂旧在と伝えられる半丈六像。同寺開創に当り,明治24年(1891)に高野山より迎えられた。金剛峯寺像に関連して本像の旧所在が注意されるが,本像は,定朝様の形式化・硬化が顕著で,藤原忠実発願の造像もするには相応しくなく,谷上大日堂旧在の伝は信じがたい。明治期に廃滅した高野山上の諸堂宇の中に大日堂の名がいくつかみえるが,本像はそれらの内の一堂の本尊であったものと推察される。次の3項目がこれからの研究課題となる。①12世紀前半期円派系仏師の作風分析②12世紀前半期の重要作例の発掘とその検討③12世紀後半期の保守派造像の検討この内①②に関連して,淡路・東山寺と東大寺に蔵される十二神将像2具について検討を始め,東山寺像については調査を行った。石清水八幡宮護国寺薬師堂旧在の東山寺像は,康和5年(1103)に大江匡房が大宰府よりもたらして奉納したもので,承徳2年(1098)仏師真快(観世音寺馬頭観音像の作者と同一人物か)の作と推定される(『八幡宮寺縁事抄』)。中央作に準ずる本格造像として貴重である(別稿で詳論の予定)。また東大寺像は,その作風から,12世紀初めの東大寺に於ける円派系仏師の活動を示す作例と推定される。この両像に,長勢の広隆寺像,仁和寺北院像台座の十二神将像を含め,定朝様十二神将像研究を展開する予定である。_ 187-
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