要な構成要素の図式的な再現にのみ配慮し,原画に描かれた世界の多様性をほとんど伝え得ていないことである。例を挙げるならば,その図版は原作には最少5種類はある樹木を2種にさえ描き分けてはいない。この写し絵によるクロードの作品の普及が引き起した問題は,以上のような大衆的レベルに停まらなかった。偽作への対策としてクロードが自作を記録したと言う,それ自体が高い芸術的価値を有する素描集LiberVeritatisの版画化出版が惹起した美術批評史上の問題である。ローマのクロードの遺族の手を離れたLiberV eritatisは,パリを経て,1720年代までにはロンドンそしてチャツワースのデヴォンシャー公爵家のコレクションに入っている。リチャード・アーラムによる版画化は1774年から4年近くを費して行われ,アーラム(出版社ボイデル)版LiberV eritatisは200点の版画を収めた2巻本として1777年にロンドンで出版された。アーラムが用いたのは,クロードのペンの線描をエッチングで,ウォシュをメゾチントで表現する技法である。コ・カルラッチォーロが使用したのも,アーラムが用いたものと同じ技法である。しかも,これらアーラム,カルラッチオーロ両版のLiberVeritatisは共にセピアで刷られており,各地のクロードのタブローのワニス焼けの進行と相侯って,「琥珀色のクロード」のイメージを定着させることになったと思われる。これら2種のLiberV eritatisが残したのは色彩だけの問題ではない。ポール・メロン英国美術研究センターのマイケル・キットスン教授は,ターナーそしてラスキンをも含め,19世紀までのクロード芸術の質讃者と批判者の多くは,LiberVeritatis原作ではなく,アーラム版を見て,LiberVeritatisそしてクロードの素描一般の芸術的価値に論及していた可能性が高いと示唆している。少くとも,大衆的レベルでのクロード観は,アーラム版ごとく,素描を版画で置き換えても,何らの影椰も被らない類のものだったも言える。クロード観が期待するものであり,その図版<牛飼い>通りのものであった。つまり,クロードの作品の芸術的価値は,陰影,濃淡,彩色等を含めた意味での,全体的構成の卓抜さに存在すると言うのである。1815年にはローマでもうひとつのLiberV eritatisが出版されるが,そこでルドヴィChambers's Informationにおいてクロードの作品が模範として果した役割も,その-191-
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