(34) 室町幕府御用絵師としての周文の研究(2) 達磨寺の達磨像の修補:同像曲泉裏面修理銘(3) 愚極礼オによる周文画への賛:同賛文研究者:東海大学教養部専任講師斉藤昌利研究報告:周文と室町幕府との関係は,15世紀の水墨画における周文様式の広がりという点において重要なことである。それと同時に,周文から小栗宗湛,さらに狩野正信へと続く,いわゆる幕府御用絵師というものを考える上でも同様である。周文の史料については既に渡辺ー氏が『美術研究』に詳しく論じられており,新たに加えるものはないが,ここでは周文の仕事を画家あるいは仏師という作家としての立場と都管という禅僧の立場とに大別し,周文における御用絵師の意味の一端にふれてみたい。(1) 朝鮮派遣使節の随行:『李朝実録』世宗6年,7年主等梵齢を正使とする大蔵経板を得るための使節が応永30年(1423)に朝鮮に渡り,翌年に帰国する。その一行中に「画僧周文」の名がある。同実録中には周文が描いたと思われる山水図のことも記されるが,周文の名は禅僧として周顕と並べられており,使節の性格を考えれば画家として参加したものではなく,禅僧として使節に選ばれたものであろう。あるいは絵という特技が使節に選ばれる要因となったかもしれないが,使節団中の本来の役割とは思われない。奈良の片岡達磨寺は嘉元3年(1305)に焼亡し,足利義満が再興を計画した。銘によれば達磨坐像は足利義教の命によって永享2年(1430)4月から10月にかけて椿井集慶が修理を行なっている。銘文中に「採粧僧周文」とあるが「仏工椿井法眼集慶」「勧縁遠孫比丘祖能」という書き方を合わせて考えれば採粧を僧周文が行なったということである。椿井は奈良の仏師であるが,他にも室町幕府の仕事を受けており,周文は僧という身分がついているけれども,職人として足利義教の命によって達磨像の彩色を行なったと考えられるであろう。画面は失われたが愚極礼オによる賛文のみが残るものである。それによれば仲方中正の身辺によく仕える童子がいたが,臨終に際して手紙に周文筆の扇面画を添えて仲方に別れを告げた。仲方は懲んで周文に観音像と善財童子の詢礼する姿を描かせてその上に表装し裏に童子の手紙を貼った。その事情を永享5年(1433)の冬に愚極礼オが記している。文中では「周文公」と呼ばれ,また「三昧画師手」とも記されており,-194 -
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