周文が既に画家として有名であったことをうかがわせる。なお,仲方中正は相国寺にあって応永20年(1413)頃から蔭涼職と同様の職務内容に携っており,後に蔭涼職と称されるようになった。永享5年の当時も同様であり周文と蔭涼職との結び付きがこれ以前に既にあったことを示している。9月20日永享7年(1435)6月に季境真薬が蔭涼軒主となり,『蔭涼軒日録』(以下『日録』と略す)を記録し始めて間もなく9月20日の条に相国寺仏殿の両脇侍を造立することとなり,仏工を選ぶために鹿苑院主と周文に建仁寺の仏像を見せるということが記されている。9月24日の『日録』には建仁寺の三尊の仏エとして大進法印,大夫法印,大蔵法眼の名があげられている。しかし,三尊の面貌は旧いとされ11月7日に始められた相国寺の阿弥陀,弥勒二尊の製作にあたった仏工の名は記されておらず彼らが関与したかどうかは不明である。両脇侍は翌8年3月12日に仏殿に安置されるがその間これに関連して周文の名を見ることができない。製作者としてではなく相国寺側の監督者としての立場にあったものと考えられる。建種侍者が等持寺に戻り周文公の申し立てによって把針としたという記事である。把針というのは禅の修行として針をとる,つまり裁縫をすることあるいはその人のことである。『日録』には袈裟縫の僧のことがしばしば見出され,長享2年(1488)12月となり相国寺西の碧雲庵,等威房,周徳房等を従えて仕事にあたった。長享2年の当時は等持寺の種首座,鎮書記に替っている。この種首座は長禄3年(1459)以来袈裟縫として名の見える建種首座であり,小栗宗湛が周文にならって給恩を受けるようになった寛正4年(1463)頃には宗湛と並んで袈裟縫として給恩を受けている。この建種首座と建種侍者とは同じ人物と思われる。周文が禅僧として袈裟縫にあたっていたことが判明するわけであるか,他の袈裟縫僧が首座,書記,知客といった西班であるのに対して,周文が東班の都管であることは周文の他の活動も合わせてみればその立場のかなり自由であったことが考えられるであろう。この日周文は伏見宮貞成親王の許を訪れて自分の描いた障子絵を見ている。貞成親(5) 建種侍者を把針とする:『蔭涼軒日録』永享7年10月17日18日の条には周文が袈裟縫であったことも記されている。周文は仁庵主の後に袈裟縫(4) 相国寺仏殿脇侍像製作のために建仁寺の仏像を見る:『蔭涼軒日録』永享7年(6) 貞成親王邸の障子絵:『看聞御記』永享10年4月9日-195 -
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