鹿島美術研究 年報第5号
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王は「自筆と雖もなお覚束なきか。」と記しているが,この言葉は障子絵の巧拙に関するものではなく,宮島新一氏の説かれるように周文の自筆であるかどうかという点が判然としないという意味であろう。『看聞御記』における貞成親王の絵に対する態度を見るとまず第一に筆者が誰かということを気にしている。絵の評価としてはほとんどが「殊勝なり」あるいは「絵所に恥じぬ能筆」といった賞め言葉であり,否定的なものとしては「比興」が使われる程度であり絵の巧拙はあまり重視していないようである。先程の言葉も周文自筆かどうかを気にかけたものであろう。貞成親王邸の障子絵が周文の自筆かどうか判然としないということは,宮島氏の述べられるように当時既に周文画が典型化されて追随者の作品との区別がつけにくかったことが考えられる。さらにはこの障子絵が本来は貞成親王邸で描かれたものではなく,他から手に入れたために鑑定を依頼したものであろうし,恐らくは幕府関係の公的な場所にあったものではなく,私的な製作であり自作の区別ができないほどに多くの製作を周文が行なっていたことも考えられるであろう。(7) 雲居寺本尊の製作:『蔭涼軒日録』永享12年4月19日永享8年(1436)に炎上した東山雲居寺の再建は直ちに計画されたが本尊阿弥陀の造立は同11年になって着手された。当初の仏工は京仏師二人であったがすぐに奈良仏師二人と交替し,翌12年4月19日には別の奈良仏師と周文への下命となった。同月23日には南都大仏殿の脇侍を本様とするため,周文が仏師を率いて赴くこととなり5月晦日に図面ができ,6月11日に3度目の刀始という運びとなった。この像は翌嘉吉元年(1441)6月14日に完成が披露された。本像の仏師選定にあたって最初の京仏師は費用がかかり過ぎるために交替となったが,次の奈良仏師の場合には先規に合わないという技術的な点が問題となっており,三番目に登場したとはいえ周文にも仏師としての腕が十分に備わっていたことを示している。なお,本像製作において周文がどのような仏師を率いたのかという点が疑問として残されている。(8) 雲居寺総門二王像の製作:『蔭涼軒日録』永享12年11月6日雲居寺の再建は続き総門の二王像が製作されることとなった。永享12年(1440)10 月29日に二王像製作の施色つまり見積書の提出が命じられ,11月4日に周文は300貫文,仏師は605貫文の註文を出したため同月6日に二王像製作の命が周文に下された。二王像の刀始は11月27日に行なわれ,足利義教が雲居寺で二王像を見た翌嘉吉元年5月15日には完成していたものであろうか。周文と争った仏師の名は記されず,あるいは共-196-

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