(3~ 呉偉と南京画壇の研究(中間報告)に雲居寺本尊の製作にあたった奈良仏師であるかもしれないが,ともかく仏師に比べて半額の見積りを出すことによって製作を請け負うこととなったのである。(9) 四天王寺聖徳太子像の製作:『康富記』嘉吉3年12月22日大阪の四天王寺は嘉吉3年(1443)正月12日に兵火のために焼亡し太子堂の太子像も焼けてしまった。『看聞御記』によれば4月19日には太子堂が造営されているが太子像はまだ作られていない。この太子像をめぐって僧周文と仏師が争い,くじによって仏師が担当することとなった。しかし同年12月22日に中原康富は四天王寺の聖徳太子四十九歳の像が周文によって造立されて元のように安置され周文が上洛したことを伝え聞いている。ここでは周文都管と記され後花園天皇によるものと伝える太子堂造営に将軍家から派遣された僧として参加している。これによって周文は将軍家の御用を勤める禅僧であることが人々に知られていたことがわかる。同時代の記録による周文の姿は以上のようであるが後継者となった小栗宗湛とはかなり異なった様相を示している。宗湛は絵画の記事ばかりで彫刻には関与しなかったという点はもちろんであるが,宗湛が周文の後継者であることが明瞭となる『日録』寛正4年(1463)3月28日の条には,上意を受ければ何処であろうと描かなければならないと命じられ,同年6月15日の条には上命以外では描いてはならないとも記されている。周文においてはこのようなことは知られず,逆に他者と争って仕事を手に入れた場合もある。そこには幕府御用絵師としての絶対的なものは感じられない。また宗湛が周文の如くの俸禄を受けたからには,周文も俸禄を受けていたのであろうが,その形は同じ幕府御用絵師であった土佐広周が御料所の知行を受けていたのとは異なり,先述の袈裟縫僧の場合に近くあくまでも禅宗の機構内での待遇を受けていたにすぎないように思われる。研究者:東京国立博物館東洋課主任研究官研究報告本研究は,まず,明時代中期の南京画壇と最も重要な画家である呉偉の伝記と作品に関する資料の基礎的な収集と整理をおこなうことを目的とした。呉偉の伝記資料としては,明の張埼の撰した墓誌銘「故小仙呉先生墓誌銘」(張埼「白斎竹里文略」所収)のほか,周暉「金陵瑣事」などの記事が知られているが,これらの文献資料のほか呉湊信幸-197-
元のページ ../index.html#221