鹿島美術研究 年報第5号
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光琳が始めて本格的に絵画を学んだと考えられている山本素軒(…1659-1706)である。素軒は狩野探幽の高弟であったと伝えられる山本素程の息子として生まれ,いわゆる狩野土佐折衷体と呼ばれる絵を描いた画家で,法橋にも叙せられている。この素軒が描いた「琴棋書画図屏風」(六曲一双京都御所蔵)の一部が小西家伝来画稿類中の「琴棋書画図」(『資料』画稿類9163. 0 X 65. 0cm)と極めて類似している事は既に指摘されている。(田能村忠雄「光琳の師山本素軒の画跡(下)」『国華』788号)両者を比較してみると,背景が異なり,三人の人物のうち右側で書を持つ人物が素軒では男性であるのに対して画稿では女性であるという相違が認められる。しかし,三人の姿態や位置関係は全く一致し,共に描かれている左とまん中の男性は衣紋線やかぶり物の形,靴の先に至るまでほぼ完全に一致する。しかも二つの作品の大きさもほぼ同じであると思われる,小西家に伝来したこの画稿が現存する素軒の屏風を写したものではなくとも,素軒の屏風の元となった下絵或いは粉本を写したものである可能性は高いと考えられる。また素軒関係以外でも,『光琳新撰百図』に「法印探幽行年六十八歳筆延宝辛酉年六月二十三日写主尾形市丞」という款記をもつ「騎聰布袋図」が載せられており,さらに江戸在住期には雪舟や雪村の作品を写し,その一部は現在に伝えられる等,光琳は絵を学び始めてからかなり長期間写しーおそらく粉本として使用する事を意図して描いたであろうーを制作し続けたのも事実である。当時の狩野派の絵画教育法を考えてみても,正徳二年(1712)に著わされた『画答』の巻ー,六法において「伝模移写師匠たる人より絵本を借受て,膠地をしたる紙に臨して是を貯置第一の宝とす,是を粉本と云比事なるべし。凡画を学ぶには粉本を写すを先務とす,粉本を持たざる時は画を習ことあたはず,目利もならず,粉本を以て一流を立又其写す間に格を覚るなり。(下略)」と記され,画論伝受秘事口訣においても「(略)画本を用ずして,毎事に我意に任て描ものは,下手の不敏者なり。(略)毎事に粉本を用て古人の規矩を違へず,正道を描んと欲する者は,己が悪きを知り,古人の聖なるを悟り,予も亦一度画の本道に至らんと自ら憤りを発し,神霊を探らんと願ふ者也。是も以てこれを上功とす,描こと必ず善かるべし,其路を背かざればなり」と記されている。狩野安信も又,『画道要訣』において,狩野派は個人の資質によって描く「質画」ではなく,学び伝える事のできる「学画」の道をとると述べており,光琳も山本素軒の下で絵を学んだ際大量の粉本したと考えられる。以上の状況を踏まえた上で,改めて本図が大下絵であるか或いは他人の作品を写し-227-

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