たものであるのかを考えてみよう。既に山根氏が指摘されているように,(前記『在外秘宝』解説)本図の構図,松樹や水紋の描写は探幽以後の江戸初期狩野派の花鳥図屏風に見られるものと一致している。狩野派に学んだ光琳の,殊に初期の作品に狩野派と一致する要素が見られてもある意味では当然かもしれない。しかし,屈曲のある太い輪郭線をもち跛を加えられた岩の表現は,完成画として現存する光琳作品の中には一切見る事ができない。また,水紋の表現も「伊勢物語八ツ橋図」(東京国立博物館)などに見られるものはもっと水紋の曲線がゆるやかである。本図のように細かく屈曲する水紋は探幽画の中にも例は見られず,しいて言えば「十ニヶ月歌意図」(サンフランシスコアジア美術館蔵)に見られる山本素軒のものに若干似ていると言えるかもしれない。確かに,現存する光琳の完成画と共通する所がないからと言って,極初期に光琳が自らの絵画制作として本図のような作品を描いた可能性を完全に否定する事はできない。没骨で描かれた菊や小竹,朝顔などには粉本としての性格が弱い事も事実である。しかし,全体を総合的に判断した場合,本図を画稿ではなく狩野派の原本を写した「写し」一粉本一であると考える方がより適切であると考える。本図を描いたのかが光琳自身であるかどうかは不明であると言わざるを得ないが,もし光琳が本図を描いたのであれば,山本素軒の下で絵を学んだ際に学画の一環として狩野派のものを写した,狩野派学習の一資料として扱う事ができよう。今回の現地調査ではここで取り上げた「松竹=鶴図屏風」以外にも数多くの作品に接し,認識を深める事ができた。各作品に直に接する事で得る事ができた知見も数多いが,それをどう解釈すべきかの結論が自分自身の中で出せないでいるものも多い。しかし,今後研究を進める中で今回の調査の成果を活用する事ができると思う。-228-
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