工(appareilirregulier)と呼ばれる小割石をセメント床に不規則に混ぜていく方法で間は11世紀のもの,一番西の梁間はロマネスクのポーチを増設した時に拡張されたものである注(2)。西寄りの梁間が11世紀のものでないことは,梁間の長さとアーチの高さのちがい,この部分にのみ12世紀の剖形が用いられ,途中で切断されていること,身廊西壁の柱頭と柱脚の装飾がポーチのものと同じ様式であることからして明らかである。身廊の立面は,方形の基柱と基柱を結んだ下半部のアーチ列と,その各アーチ列に対応して設けられた上半部の高窓とから成る。アーチ列と高窓は連続した壁面上にあり,後のロマネスク建築の身廊立面図に見られるような身廊の壁面を水平の建築要素で区切った「層」の概念はここにはない。また基柱には身廊面にもアーチの内側にも,つけ柱(engagedcolumn),柱頭,挟基石((impost)はなく,わずかにアーチの起挟点に単純な剖形が見られるのみである。各基柱の身廊面につけ柱,柱頭,挟基石がないことは,身廊が弯窟構造をもたず,木造の平天井であったことを示唆している。もし身廊が弯窪構造で掩われていたのであったなら,教会の主軸に対し直角にかかる補強のための横断アーチを受けとめる挟基石,柱石,柱頭,つけ柱が身廊側に必要になってくるからである。また横断アーチから柱頭,つけ柱へと続く垂直要素は同時に梁間の単位をアクセントづけるものである。ペルシーの身廊にはアーチ列はあるものの,それはいまだ連続した単一の空間をその下半部においてのみアーチで区切ったにすぎず,弯醒構造と一体になった梁間を構成単位としてできたものではない。この簡潔な11世紀の建築には装飾要素がほとんどない。わずかに数種の剖形と交叉部の上部の四壁に柱頭かあるのみである。剖形はペルシーの母修道院であったサン・ブノワ・シュール・ロワール(Saint-Benoit-Sur-Loire)の地下祭室およびオセールリング朝以来の型に単純な彫刻,線刻文をつけたものである。教会内部の石組も不規則な寸法の裁石を厚いモルタル層で接着していく北方の技法をとっており,11世紀かの石を並べていく南方系の構築法は見られない。教会外部はアパレイュイレギュリある。以上の点から考えて,ペルシーの教会はサン・ブノワ・シュール・ロワールの小修道院であったという関係からか,北方に普及していた11世紀初期の構築法を受けついでおり,おそらくこの構築法はロワール川を遡って伝播したものと推察される。(Auxerre)に見られる型に近い。柱頭もいまだプリヨネ型注(3)の構造をとらず,カロら12世紀にかけてマコネ(Mac6nnais)地域で主流になっていたレンガのような形状-230-
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