3. クリュニー断片の調査と撮影注(l)Perrecy-les-Forges lともにSaOne-et-Loire県Cluny はまったく異なる個性の強い様式で彫られている。今回の調査で,私は扉口に五人の彫刻師の「手」を判別した。個々の「手」の様式的特徴と関連作品については別の機会に譲らねばならないが,ここでは「荘厳のキリスト」の彫師が,マコン,アンジー,「アブナの祭壇」を請負ったエ房から育った人であるのに対し,楯の「受難伝」の彫師は,ヴェズレーの南扉口「降誕」の彫師にきわめて近いことだけを述べておく。様式的に前者がいくらか早く,しばしば“クリュニ一様式”と呼ばれる衣文の特徴を示している。しかし様式の発展は常に重複しながら進んでいくものであるから,この二人を同時期の人とすることは不可能ではない。とすれば以上述べてきた扉口の問題点は,年代的な断絶を経て生じたものではなく,むしろ原案に従って彫られた彫刻が配置される前段階で変更が生じ,現在見る例外的な扉口構成と図像プログラムになったと考える方がよいであろう。最終的な結論は,ポーチの機能と「受難伝の諸場面」の研究をもう少し進めるまで待ちたい。ペルシーの彫刻様式をより大きな枠組の中で美術史的に位置づけるためには,どうしてもクリュニーとの関係を明らかにすることが必要である。今回の調査では1928年から1938年にかけてコナン(Conant)により発掘され,その後,未整理,未出版のまま収蔵庫に眠っていたクリュニーの建築装飾,彫刻断片,数千個の中から重要と思われるものをスライドにおさめた。その結果だけを述べれば,ペルシーと直接関連のあると思われる断片は,殆どクリュニー大修道院の東部(発掘場所(pits)V, VI, VIII) と北翼廊(pits,XV, XXIII)から出土していること注(4),東端部の彫刻はすでに高度な彫刻技術,装飾文,確立された様式を示すこと,いくつかの衣文様式が併存していることなどである。また彫刻技術は最西部の梁間とナルテックスから出土された断片を除き,東端と身廊でほぼ同じであること。したがって壮大なスケールをもった第三クリュニーは東から西へ梁間ごとに建設されたのではなく,下から上へと水平に建設されていったと思われることである。以上のほかにも多くの点が知見されたが,別の機会に譲ることにしよう。-235-
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