鹿島美術研究 年報第5号
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けていたと思われるロンバルディーア地方の伝説—現実に生きている人間の生活の見を持たない上司,同僚一~に置かれたからである。しかし或る日本の研究者は,イの組み合わせ),押えた色相での構成の巧みさなどを離れても,18世紀の北イタリアの社会,人々の人間観等の証言者として重要であるといえよう。やはりミラーノ生まれであったカラヴァッジョが,ローマに向かう前に既に身につのチェルーティの中に生きている。しかし,カラヴァッジョが世俗的な主題と宗教画とをほとんど同じ視点から見て描いたのに対して,チェルーティはこの両者の間にかなりの距離を置き,宗教画では壮大なスケールの豊富な色彩に溢れたヴェネツィア派に近づいてゆく。その理由は,一つには注文主の依頼を重視したと理解されるかも知れないが,あるいは作家自身の内面の問題とかかわっているのかも知れない。日本で出版される美術辞典類には名前さえも現われないチェルーティではあるが,イタリアの美術史に携わる者にとっては無視することのできないこの画家の大展覧会を通して自分自身の「美術の歴史を見る眼」をまた養うことができたと考えている。トライアヌス帝円柱浮彫にも見られた,敗者をも誇高く雄々しい人として表わした芸術家の心を現代人は失っていないであろうか。不具者の中に純粋な魂の美しさを表現したマザッチョやチェルーティのことを考えていた時,7月7日のETV8を見た。胎児診断に関する番組である。その中で元兵庫県知事が「正常な人間であれば一人一生に二億円はかせぐが異常を持って生まれた人はかせぐどころか消費するばかりである。従ってそういう人は生まれてこない方が社会のためにも本人のためにも幸せである」との意見を述べているのを聞き戦慄を覚えた。勿論,討論出席者の誰もその意見に賛成はしなかったが。日本は「円神様(お金のこと)を崇拝する国」という批判を今回は何度も聞かされてきただけに,人間の価値を単に「稼ぎ」に換算しようとする政治家が居ることの恐ろしさが身に滲みた。日本の人の考えを変えるには身障者でも人並みのことはできるということを自ら示さねばならない等と気負っていた自分の若い頃の姿を想い出す。私は事実,ー級の身障者手帳を持っている。その私が人並みに国立大学に教授として勤務していられるのは,イタリアで人生観の大転換を経た上,日本においても非常に恵まれた環境—~タリアに行くと私が脚が悪いために「優遇される」ことを指摘された。確かに数知れぬ親切に出会う。しかし,それが日本で起きない方が間違っているのではないであろ中に芸術のモティーフを見出し,理想化せずにこれを素朴に表わす—は,2世紀後-250-

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