鹿島美術研究 年報第5号
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2.鹿子木の芸術観3.鹿子木塾における教授法4.鹿子木塾生のその後5.鹿子木の理想と現実との落差3.尚古集成館における島津家資料の調査研究尚古集成館学芸員田村省三•松尾千歳美術院で指導にあたるが,1918年以降は下鴨画塾を興して多くの後進を育てるとともに,京都の官展作家として重きをなした。厳格な堅固な構成を学んだ鹿子木は,1904,05年にわたる三宅克己や和田英作との論争からも分かるように,当時の日本洋画壇の主流であった白馬会風の外光描写に不満をもち,アカデミックな絵画研究の必要を主張し続けた。また,水彩画やパステル画は油彩画に比べて不完全な技法と考えた。養成に努めるとともに解剖学をも学ばせた。これは人体写生を基本とする彼の考え方に依るが,同様の意味から透視画法等の基礎的な訓練をも重視した。して立ったのは早い時期の門下生で,その多くは京都の官展作家となった。ほとんど自然主義に立つ写実画を描き,大成した人は少ない。過去のものとなりつつある画派に属していたから,彼の理想は印象派以降の美術界の動向とは相容れなかった。ここに鹿子木の不遇の原因があり位置付けがある。アカデミズムの導入は不成功であったと言わねばならない。しかし,鹿子木の歩もうとした絵画の本道なるものは,時代を超えて再考すべきであろう。一江戸時代鹿児島における狩野派絵画を中心に一(共同研究)鹿児島大学教育学部助教授永田雄次郎尚古集成館(鹿児島市吉野町)の資料は,島津家を中心として鹿児島の文化,歴史を語る上で重要である。その内,絵画に関して,雪舟,永徳など著名な画人の作品は,島津家の手を離れたものも多いが,鹿児島の絵画史,特に,江戸時代鹿児島で活躍した狩野派を中心とする画人(御用絵師関係)の作品と思われるものを多数見ることがローランスの優秀な弟子として関西美術院に倣い石膏部と人体部を設けて素描力の記録によれば鹿子木門下生は数百人にのぼるが,画家と鹿子木の師ローランスは当時フランス画壇でも-18-

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