鹿島美術研究 年報第5号
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(2) 筑前絵師の研究ー尾形家一代絵画とするほか,年表,年譜,画家の略伝を附載することで一致した。なお本年1月から2月にかけて,橋本氏の若い友人である尾崎蒼石氏(策刻家,大阪市在住)所蔵の近・現代中国画も,調査し得た。この三十点をも含め,とりあえず京阪神に所在する近・現代画の資料を収蓄する予定でいる。研究者:九州大学文学部助手小林法子研究報告尾形家のこと本研究では,筑前福岡藩黒田家のお抱え絵師尾形家(はじめ小方家)の絵師たちの作品と記録の収集,整理をおこなった。これにもとづき,まずその概略を記したい。尾形家初代仲由(?■1669)は雲谷派風の画をえがいていたが,元和末年黒田家につかえてのち,藩主の命で狩野探幽の門にはいったとされる。仲由の作例は二点のみ,そこに雲谷派の痕跡はみとめがたい。仲由の子守義(1643-1682)も探幽に学び,一説に探幽四天王のひとりとされるが,かれのわずか三点の遺作からはこの説をにわかに容認することはできない。三代守房(?-1723)は下野宇都宮の出身,探幽晩年その侍童であった。のち守義の養子となり,小方家をついだ。宝永年中(1704-1711)に幽元と款し,法橋位にあった。正徳年中(1711-1711)あらためて狩野永真憲信の門にはいり,狩野姓をゆるされ,狩野法橋友元重信となのっている。四代は守房の第二子守等(1695-1771/72)がついだが,そののち守厚(1722/23?-1781),洞谷(1753-1827),洞臀(1791-1863)は養嗣子,そして探香(1812-1868),洞眠(1839-1895)とつづき明治元年家業御免にいたる。家系を画系としたもつ努力がしのばれる。ひとりで四十点ちかい作例をのこす洞需をのぞくと,かれらおのおのの作例は数点にすぎない。しかし画技の習熟ということからすると,いずれの絵師も狩野派の絵師としてある水準に達している。また画題も多岐にわたるが,現在『尾形家絵画資料』(福岡県立美術館編昭和60・62年,以下『尾形資料』と称す)としてのこるような膨大な粉本の所蔵が,それを可能にしたとおもわれる。さらに尾形家はほかのお抱え絵師にくらべ石高もたかく,藩主の肖像画製作など重要な仕事にたずさわり,在野の絵師をもふくむ共同製作においてはその指導的立場にあった。これらのことから,尾形家の絵師たちはおのおのの時代に,筑前における絵画活動の中心的存在であったと推察される。-66 -

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