聖福寺本は,そのやや右をむいた姿勢,ひろい額,ひろくひらいた胸,腕の張りや印相,両屑にかかる袈裟の衣摺線から,承天寺本をうつした達磨図(1252)を範としているとかんがえられる。承天寺の達磨図は細密な著色画である。しかし『尾形資料』の画稿では,碕嘉’はうす墨でうつされ,達磨の部分のみくつきりとえがきだされている。承天寺模写本の達磨図は,寛文12(1672)年に野中亀之介によってつ〈られたとかんがえられる。そしてこの野中亀之介は,守房が小方家にはいる以前の名である可能性がある。しかしながら,図様において聖福寺本が承天寺模写本とことなる部分もある。頭部を袈裟の端で被っている点,目のかたち,印相,吉祥坐にくんだ脚など。前者二点に関してはのちにふれる探幽模写本(1242図5),後者二点については正面むきの達磨図(1244図6)との頚似を指摘することができる。このように,守房はきわめて伝統的な頂相から,他本を加味しつつ,水墨画をおもわせる線描優位の達磨図をうみだした。ところで聖福寺本は,その軸木銘から,製作の経緯が知られる。これによると元禄11(1698)年正月13日は聖福寺開基檀越源頼朝の五百年遠忌にあたるため,黒田綱政に仕える小方守房がこれをえがき,寄附された。また,この源頼朝五百年遠忌のためには源頼朝像もえがかれている。福岡藩の前藩主黒田光之はこの遠忌のために,お抱え絵師法橋狩野昌運に命図5達磨図図6達磨図-69 -
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