じ,高雄山神護寺の頼朝像を忠実に模写させ,聖福寺に寄附した。法要当日はおそらく,このやまと絵風の頼朝像とかの漢画風の達磨図があいたいしてかかげられたであろう。周知のように,近世の達磨図のおおくは水墨略筆でえがかれている。図様は半身像や,薦葉達磨など逸話にもとづくものがほとんどである。肖像としての達磨図の例は,探幽が相国寺の列祖のーとしてえがいた半身の達磨図があり,これとそとんど同図様の達磨図のうつしは『尾形資料』にふくまれている(1216,1272)。この相國寺蔵達磨図は,それに先行する承応3(1654)年南禅寺本の存在が指摘されている(桐原悟相國寺本『列祖像』と探幽一門古美術76昭和60年)。また『尾形資料』には探幽七十二歳筆の達磨図(1242)があり,『探幽縮図』(京都国立博物館編昭和55年)の達磨図(道釈人物図巻A甲240-27)とともに,相國寺本と同図様である。このように探幽の半身達磨は,すくなくとも承応3年から二十年あまり描きつがれたこととなる。守房にとってきわめて身近なお手本として探幽の相國寺本系の半身達磨図があった。それにもかかわらず,聖福寺の達磨図が当時類例のすくない全身像として描かれたのは,対となる頼朝像の像容を考慮したものかも知れない。また,細密な著色画の承天寺本を筆描をいかした水墨風の達磨に変容させるには,水墨達磨図の流行,あるいはやまも絵風頼朝像をえがく狩野昌運への対抗意識があったかも知れない。その背景はさまざまに想像されるが,ここでは守房の創作への意思をみとめるにとどめるべきであろう。探幽はさきにふれた南禅寺蔵達磨図の図様を,東福寺の明兆本あるいは流布の拓影から借用している(榊原氏前掲論文)。そしてその脇幅において顔輝のあるいは明兆の蝦幕,鉄拐を背景から抽出し,空に浮く半身像へと変容させている。祖本に忠実であることにおいても,祖本を変容させることにおいても,探幽は自由であった。粉本のどれをもちいるか,そこに創意をいかにつけくわえるか,絵師の伎値の発揮される場はそこにもあった。守房の達磨図は,そのような祖本変容の一例である。さて,守房は涅槃図の画稿ものこしている(2)。この涅槃図も灌洒な画趣をもち,守房の伎柄を十分しめしている。また,その図様は興福寺に属した尊知流絵所の命尊や土佐光信の図様を精確に継承したものである。そして守房の子や弟子の涅槃図は,その基本的部分をこの守房の画稿におうている(拙稿守房の涅槃図画稿とその周辺西日本文化130号昭和52年)。このように祖本を変容させる例と祖本に忠実な例,双方が守房とその周辺にはみいだされる。探幽の側につかえたという守房は,図様と技術のみならず,自在な製作態度をもうけついでいたといえよう。-70 -
元のページ ../index.html#94