(3) 後期江戸狩野派の研究涅槃図の例にみられるような伝統的粉本の継承,達磨図にみとめられる創作の意思,さらにすぐれた製作技術をもって,守房は筑前における絵画活動の基本的ありかたを決定した。そしてその基本的ありかたは,狩野派とりわけ探幽流の墨守という方向をさししめしていたとおもわれる。研究者:板橋区立美術館学芸員安村敏信研究報告:岡倉天心は,狩野探幽によって開拓された江戸狩野派について常信以降の動向を,単に粉本主義の弊害に陥ったとはみていない数少ない狩野派観をもっていた。彼によれば,常信以降の狩野派は,まず栄川院典信,養川院惟信の時代に微細な変革を遂げ,ついで伊川院栄信,晴川院養信の時代に古画模写の重視へ転じ,橋本雅邦,狩野芳崖の時代になって宋元の画風を摂取して新機軸を出したという。この天心による予言的推察を,実際の作品によって裏づけてみようとするのが本研究の動機であった。そこで,従来の粉本をもとにした狩野派作品より,少しでも創造的な要素をもつ作品を重視する方針で奥絵師四家を中心に調査を開始した。しかし,現状では江戸後期狩野派作品は流通界に於ても浮上しにくく,困難な調査となったのは残念である。とはいえ,数は少なくとも,明らかに狩野派自体の変容を物語る作品が得られたのでその新知見をもとに,江戸後期の狩野派の動向について若干の報告をしておこう。◇木挽町狩野家の場合栄川院,養川院の時代に,写生主義を幾分取り入れて,微細な変革を遂げたと天心は述べているが,実際の作品の中にこれはと思われるものが未だ出てこない。栄川院の代表的作例である<唐子遊図屏風〉は,狩野派粉本による作品とはいえ,顔貌表現にやや写生的要素を加味した高雅な仕上がりをみせている。一方,伊川院になると,かなり作風に幅が出てくる。狩野尚信を思わせる雅趣ある破墨風のく山水図屏風〉があるかと思えば,一方でやまと絵をかなり学んだ跡をみせる<平家物語図〉を描き,また恵比須像を単なる吉祥的な画像にせず,左右に大きな鯛や法螺貝を大胆にあしらった機知に富む作品を残している。ここに,本格的な狩野派の変革の始動を見ることができよう。次の晴川院は,巳に松原茂氏が詳細に報告しておられるとおり,おびただしい古典絵巻の模写を行った。この絵巻模写が,作品自体にどのような影響を与え71 -
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