群青で背景をつぶし,大輪の花を写実的に描くもので,これは又平画にはおそらくなかったものに違いない。この三幅対で探信が初期風俗画を写していること,写生画に関心を示したことがうかがえる。探信の又平写しは他にもある。<浮世美人風俗図〉は,根津美術館の「サマ」印をもつ三幅対の風俗図の写しであるが,背景の金砂子に至るまで実によく写している。探信は或る意味では晴川院以上にやまと絵に熱中した。熱中したというより,狩野派を捨ててやまと絵に転向したと言いたくなるほど,優品は全てやまと絵系の作品である。ボストン美術館にく西王母〉やく刑和僕〉といった漢画風の作品もあるが,ほとんど魅力のないものである。それにひきかえ,やまと絵画風に徹した<竜田川図〉やく源氏物語植図〉などは,愛らしい魅力にあふれている。鍛冶橋の当主がこのようであるから,弟子も自づと知れよう。探信門下で鳥取藩に仕えた沖一峨は師のやまと絵風をよく継いでく業平東下図〉を遺した。さらに一峨は、探信が少しだけ興味を示した写生画法を積極的に学び,<黄蜀葵小禽図〉<四季草花図〉ほか,質感描写のすぐれた作品を描いている。また一峨は師のように過去の浮世絵美人を写さず,<家翁西京舞妓図〉のような同時代の美人図を堂々と描いている。◇中橋・浜町狩野家の場合この二家についての変革を伝える作品が現在のところ見いだし得ないのが残念である。系図からみると中橋狩野家は,13代永賢泰信の次を鍛冶橋の探信守道の弟,祐晴邦信が継いで14代目となり,続く15代目を木挽町の伊川院の子,永應立信が継いでいる。このことから推察すれば,この当時の中橋は,宗家としての実権はほとんど失っていたのではないかと思われる。その実権は,ではどこににぎられていたのか。それは他ならゆ木挽町であろう。伊川院の子は中橋家のみならず,浜町への董川中信を後継者に送り込んでおり,伊川院を中心とした新たな権力構造が築かれていたことが想像される。そういう権力構造の中で鍛冶橋の探信が狩野風を捨てんばかりにやまと絵へと傾斜していった事実は,何とも興味深いものがある。◇他家の兆しここでついでに表絵師の諸家について目立った動きをみておこう。まず,探信の風俗画模写と関連して注目されるのが素川彰信(1763■1826)である。彼は猿屋町代地狩野家6代目であったが,遊蕩を好み常に花街に出入したという。その彼にふさわしくく美人図〉はまさに浮世風俗図の模写である。衝立の前にしどけなく坐す美人を描く本図は,探信の又平写しに若干先行する作例かと思われる。衝立の画中画は裏箔を-73
元のページ ../index.html#97