使って春景山水が描かれ,その画中に彰信の落款を隠し落款として入れている。了承賢信(1768■1846)は深川水場狩野家の4代目で,漢画系人物図にはやや下卑た表情すらみられるが,<秋草図屏風〉は,金地の画面に繰り返される薄の茎の孤線が一見リズミカルでありながら,時として強く屈曲し,えて成功した作品である。狩野派が明らかに装飾画風を意識した作品といえよう。この了承の次代を継ぐのが一信で,羅漢図に洋風の陰影を加え,無気味な宗教画を描いた。その一信のく源平合戦図屏風〉には,羅漢図にみられる大胆な試みは全くなく,伝統的な手法を守っている。それは,狩野派に兆した変革が,組織的なものではなく個人の趣味的要素に強く縛られていたことを雄弁に語っていよう。以上2例は今後さらに調査を進めてゆけば,より多くの表絵師達の変革の試みに出会うことができることを予測させる例としてあえて提示した次第である。以上,本調査によって得られた後期江戸狩野派作品の中より,狩野派自体の変容を示すと思われる作品を抽出し,その概略を述べたのだが,未だ充分な結論を得るには作品量が絶対的に少ない。ただ,天心の指摘については次のようなコメントが用意できるであろう。栄川院,養川院の微細な変革については未だ資料不足であり,伊川院・晴川院の時代には狩野派自体に大きな変化があったと認めてよかろう。それは,天心の述べる古画模写の重視によって派生したやまと絵復帰の傾向であり,また伊川院が示した写生的傾向である。この狩野派内の変革は,狩野派内部の権力構造の変化をも伴っている要素も指摘できよう。それは,木挽町狩野家が宗家の中橋狩野家や同じ奥絵師の浜町狩野家へ世継ぎを送り込んでいる事実によって推察される。この木挽町による主導権が権力的にも画風的にも18世紀以降の江戸狩野諸家に影響を与えていることは興味深い事実である。鍛冶橋家の探信がやまと絵にのめり込んでいったのも,表絵師たちが浮世絵や洋風画,装飾画風へと様々な関心を示していったのも,「学画」によって狩野家の様式統一をめざした当初とは違った権力構造の中でこそ可能であったと考えることができる。本研究によって,作品研究と共に,今後はさらにこうした狩野派内部の権力構造についても留意して資料収集すべき必要性を痛切に感じさせられた次第である。なリズムにアクセントを与X X X -74 -
元のページ ../index.html#98