鹿島美術研究 年報第5号
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(4) 室町末期の逸伝画家研究研究者:竹早教員養成所講師大石利雄研究報先に研究目的に記した画家のうち,「前嶋宗祐」については本報告書ではふれていないが,それは重要な作品の一点の調査をまだ終えていないからである。「中間報告」とする所以であり,その点をあらかじめおことわりしておきたい。今回は関東狩野派,及びその周辺の画家に焦点を絞り,作品の実地調査と文献面からの考察を行なった。なおこれと並行して,ここ数年来の研究テーマである「是庵」についても関連調査を試みたので,後ほど付記することにしたい。作品の調査は,美術館,博物館等の所蔵品に加え,寺院に伝来するものについても行なった。寺院の調査では,末発表の作例にも接することができたが,そのひとつに,秋田,天徳寺(曹洞宗。佐竹氏の菩提寺として寛正三年,常陸に開創され,国替えに伴い移転)所蔵の「右都御史」印「寒山拾得図」(二幅対)がある。作風にはいくらか鈍重な面もあり,にわかに判断できないが,伝存作例の少ない「右都御史」印画に一資料を加えるものと思われる。また,画家の比定は困難ながらも,明らかにこの時代の狩野派のものと推察される興味ある作例も数点あった。それらを含め,今回調査することのできた個々の作品については,まだその整理が充分行届かず,また様式的検討も残されているので,それは今後の課題として,ここでは文献面からの考察を中心に述べてみることにしたい。関東狩野派,こと小田原狩野派に関する同時代史料としては,天文9年(1540)の「珠牧」による鎌倉鶴岡八幡宮の障壁画制作の記事(「快元僧都記」),永禄12年(1569),北条氏政・氏輝による伊達輝宗への狩野派筆扇面贈呈の記事(「治家記録」)がこれまでに知られている主要なものと言えようか。今回,同時代文献には改めて目を通したが,わずかではあるが興味ある情報を得ることができた。中でと,理性院厳助の信州滞在時の日記に見える,狩野与三郎なる者が,屏風絵を描いている記事(「天文2年(1533)信州下向記」7月3,4日条)が特に注意をひいた。残念ながらこの画家の素姓はまだ明らかにし得ないが,狩野派の活動が関東周縁にも及んでいることを示唆する一資料として注目される。ところで,同時代史料の限られる現状では,著賛画の検討は,それを補うものとしても重要であることを言うまでもない。以下,著賛画の残る二人の画家をとりあげ,-75 -(中間報告)

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