鹿島美術研究 年報第6号
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III. 純粋の地方作の像とは一線を画するところがあったように思われる。三日町太子堂像にも,金川寺や浄教寺像と同様のことがいえるであろう。地方仏の技法的展開の中では,捕捉できないところであり,系統を異にするものとして取扱わなければならないであろう。そこで金川寺,浄教寺,三日町太子堂の諸像を通観すると,すべて聖徳太子像であり,洗練された作風をもち,頭部を首柄まで一材とする技法構造も同じであるというところに注目される。そしてやや時代は下るが,田島町藤生寺の聖徳太子立像も同様な洗練された作風をもつ。藤生寺像は,頭部,体幹部とも作風をもつ。藤生寺像は,頭部,体幹部とも各前後二材矧とするところが,前者と異なるところであるが,より発展的技法構造を示しているともみられよう。14■15世紀の造立と考えられるが,金川寺像から藤生寺像まで,13世紀後半から15世紀にかけて,これら一群の聖徳太子像の技法構造や作風には相互に関連性が求められるのである。会津には,太子守宗という一派があった。この太子守宗は,無本寺ということで江戸時代に入ると断絶してしまう。『会津堂宇縁起』の藤生寺や南泉寺の項に,太子守宗について,弥陀,聖徳太子の二尊を安置し,朝暮念仏を唱えていたとある。浄土真宗的性格を持っていたものと考えられるが,金川寺,浄教寺や三日町太子堂像が太子守宗とどのように関わるのか,不明な点も多い。しかしこれらの像は,太子信仰の会津への伝播の初期的段階を考える有力な資料となろう。これらの像や藤生寺像に,作風や技法構造の共通性がみられることは,太子信仰の会津への流布と関連があるかもしれない。この問題については,今後の課題としておきたい。地方仏といっても,中央の影響の多寡によって,さまざまな展開がある。平安時代では,作風において定朝様の影聾を受けた像ではあっても,技法的には一木造であった。しかし鎌倉時代に入ると,より多様化してくる。この時代の4件5例の在銘像を検討してみても,各像それぞれに技法構造を異にしている。しかし大きく分けると,頭体を一材にするか,別材にするかで二様に類別された。この中で,中央的な作風の稀薄な像に,会津の地方的特性がより顕著にみられるように思われる。そこで薬師寺,勝福寺の諸像を中心に考えていくと,技法構造では14世紀に入ってはじめて頭部を別材とすることが行なわれるようになる。しかし会津地方では頭部を別材にすることは盛行しなかったようで,以後の作例をみてもあまり例がない。むしろー木造か前後矧合わせの技法が,会津の地方仏にあっては中心的であったようである。そしてこれは-75 -

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