鹿島美術研究 年報第6号
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•鎌倉期に潮るも2.今立町領家八幡神社観音堂3.鯖江市川島町加多志波神社観音堂III,本地仏像をめぐる問題カヤ材ー木造彫眼古色十一世紀前半木造聖観音立像像高166cm桂材ー木造背剖り彫眼彩色十一世紀前半木造聖観音立像像高104cm桧材ー木造彫眼彩色十一世紀前半以上,安置場所によって本地仏像と推察される遺品のうち,のをあげてみたが,この他に本地仏像が見い出せなかったという意味ではない。数としてはB類が最も多いが,江戸期の小像が安置されている場合が非常に多かった。またC類が少ないのはもとあった堂が退転して移座されたり,神社が退転して堂そのものに神社の名が冠せられるようになった等,様々な理由によるものと考えられる。これからこの地方では本地仏像の数はかなり多く,また古いものが多いといえるであろう。次にこれら遺品を通して本地仏像一般にかかわる問題点をいくつか指摘してみたい。まず初めに本地仏像と祭神の関係という極めて根本的なことにふれてみたい。B類の武生市余川町神明神社は千手観音立像を奉祀するが,明治元年の『余川組村々氏神取調書上帳之写』にはそのことを以下のように記す。氏神千手観音堂一宇字中嶋二鎮座此神体長五尺御仏像御座候当社之儀ノ、往古ョリ神明宮有之,神体等モ仏像ニテハ無二御座ー全ク神像伝来仕候中古ヨリ千手観音ヲ合セ祭,)候然二神仏混合仕候処当時ノ、神明宮卜号スモ沈倫(22)任観音堂卜相唱ェ候へ共決/テ仏堂ニテハ無二御座ー(略)これは神仏分離の時の書上げであるので,最初の部分に記すように,当初から神像が納められていたかどうかはわからないが,千手観音を祀ってから観音堂と称したこと,それにもかかわらず神事を行なっていたこと(「決して仏堂ではない」ということは他の箇所から神事祭礼を行うことであることがわかる)つまり氏神として祀っていたことは事実だったのであろう。すなわち仏像を氏神として祀っていたわけで,明確な本地垂這思想がなくとも案外一般には(知識階級以外には)このような仏像=氏神崇拝があったのではなかろうか。とすれば神社のみならず例えばいわゆる「村堂」(寺院の-79 -

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