鹿島美術研究 年報第6号
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し‘゜本末関係の最末寺やその地域だけの小単立寺)などに安置された仏像も同時に地域の神信仰を担っていたかもしれず,そうであるなら「村堂」に安置される仏像も全て広い意味で氏神仏像ひいては本地仏像に含まれるとも考えられるが,なお後考に期したついで霊木像との関係を考えてみたい。前述A類の武生市荒谷町観音堂聖観音立像は日野山権現の本地仏像であるが,霊木を用いて制作された霊木像のようである。湾曲する材をわざわざ用い,持物の蓮華・天衣の遊離部,台座まで含んで一木から彫出し,全身を淡赤色に著色し,衣文を墨書きとする。これらから用材を特別なものとする意識が汲みとれ,霊木を用いたのではないかと思われた。この他ではC類の今立町領家八幡神社観音堂の聖観音立像が霊木像と思われた。桂の一材から彫出し,短冊型の浅い背剖りを施す直立した像であるが,三首右側,左膝の内側に節を含んでいる。すなわち,わざわざ節のある材を用いているわけで,その姿勢と共に霊木像であると考えられた。神の宿る木を用いて仏像を制作することは文字通り神が仏の姿を現わすということになるのであるが,本地垂迩思想が第一義的に,ある特定の神の本地の姿をある特定の仏・菩薩にあてることと比べてみると,即物的で理論性に乏しいといわざるを得ない。しかしその素朴な神仏融合思想の方が信仰基層として広かったことは否定できない。霊木に宿る神は土着的な,いわゆる産土神であり,そこに願うものは五穀豊穣などの素朴な祈りである。そしてそれによって作られた仏像にもおそらく同様な祈りを奉げたのであろう。先に氏神として仏像を拝したのではないかと推測したが,霊木像の場合も同様に考えられる。すなわち,本地仏像は決して全てが本地垂迩説によって造像され,安置されたのではなく,宗教理論としてはより下位ではあるが,信仰基層は広大な,漠然とした神仏融合崇拝によって造立されたものも多いのではなかろうか。またこのように考えることにより,この地方の本地仏像が多いことも頷けるであろうし,逆に今後の本地仏像の研究に広がりを持たせることができるのではないかとも思われる。この問題とも関係があるのではないかとも思うが,本地仏像には古い表現あるいは珍しい表現をもつものが多い。武生市荒谷町観音堂像の螺髯,今立町山室白山神社像の後ろに回る天衣,福井市高尾町薬師神社像の茶杓状衣文,今立町東庄境八幡神社像の大きな丸い髯と一列に前面に並んだ頭上面,鯖江市川島町加多志波神社の裳裾両脇の翻りと翻波式のような衣文,武生市余川町神明神社像のうろこ状の裳裾と渦文など-80 -

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