すでに釈尊は人間像で表現されながら,「涅槃」のみはストゥーパによって表わされている。このことは,釈迦の涅槃がいかに通常の人間の死と異なる,仏教の理想の達成を意味していたかを物語っている。因みに南インドでは釈尊が横臥する姿の,いわゆる涅槃図は一つも見出されていない。ストゥーパによって涅槃を表わすインド古代初期美術の堅固な伝統を打ち破って,初めて横臥する“釈尊の死”の場面を表現したのは,クシャン朝下のガンダーラ美術であった(後2■ 3世紀)。林座の上に横たわる死者としての釈尊の姿はまさしく画期的なものであって,この図像はインド内からの内在的な展開とは考え難く,ガンダーラ美術がその多くを負っているヘレニズム・ローマ美術にその範を求めるべきであろう。しばしば石棺に表された「死者の饗宴」の図像や石棺彫刻の横臥する人物像は,釈迦の死としての涅槃図に一つのモデルを提供したであろうことが考えられる。というのも,手枕をして横臥する死者,繰り型の脚やマットレスを敷いた寝台,あるいは寝台のもとに置かれた踏台の表現など,石棺彫刻と涅槃浮彫に共通する要素があるからである。しかし,横臥の図像の細部を検討すると,ガンダーラの涅槃浮彫のそれと必ずしも一致しないばかりか,むしろ相違が目立つ。ヘレニズム・ローマの石棺の蓋に表された「死者の休憩」の彫刻は,ほとんどみな向って右に頭を枕の上に安ませ,左脇を下に横臥するか,あるいは仰向けに寝る。手の位置は比較的自由で,左手は枕と頭の間において手枕をしたり,そのまま体謳に沿って下ろしたりする。右手は肘を曲げて前におくことが多い。脚はしばし右膝を浮かせる姿勢である。要するに,休憩の自然なポーズが「死者の休憩」の彫像の基本となっている。これに対し,涅槃図の釈迦は必ず,寝台の上に向って左に頭を向けて,右脇を下にして足を重ねて横臥する。この横臥の姿はガンダーラ涅槃図の特徴で,経典の記述に依拠して表されたものに相違いない。パーリ本には阿難は「サーラの双樹の間に,頭を北に向けて床を敷いた。そこで尊師は右脇を下につけて,足の上に足を重ねた」ことがみえ,サンスクリット本にも同様の記述がある。文献で明示された仏陀の寝姿は,頭を北に向けたこと,右脇を下にして足を重ねたことの二点である。漢訳涅槃経もみな林座は北首し,仏陀は「右脇を床に着け,足を累ねて臥す」とする。涅槃の釈尊の姿勢は経典の伝承と強い繋りをもち,「右脇にて臥す」姿勢はガンダーラ涅槃図の大きな特徴であるが,古代インドには横臥の姿勢に,仰向けの臥法,左脇85 -
元のページ ../index.html#111