版4: 5によると,対を成すもう一方の鼎(H1 : 2)は非常に整然としている。面百乳文大方鼎(通高100cm)(杜嶺I号鼎)と,器形・文様装飾の酷似した作例である図1。双方ともほとんど同じ意匠の二器一対で出土している。この器の器形と文様の基本的な紹介は,上述の作例を提示したことで省略し,実見により知られた諸点にふれてみたい。著録によると(『文物』1983年3期49頁〜59頁)この器の本体の鋳型は外苑は隅角を含む角壁の分4個,隅角に狭まれる中壁の分4個,外底の分1個,腹内に内苑1個で構成されているが,苑の合わせ目の多くで様々に破綻をきたしているのが認められた。合わせ目は突線を成しているだけでなく,段差を生じ,隙間や完全に割けている部分もある。段差は平た<張り出した口沿の上表部分に生じており,隙間は耳(把手)の無いー側の内壁で,割け目は逆の一側の外壁右側で角壁と中壁の合わせ目上半である。また,脚部と外底の接する角の部分でも破綻がみられた。そのほか外底には鋳造技術上の問題と思われる特徴的な点がみとめられたが,ここでは省くことにする。装飾文様では四脚の上方に獣面文が施されているが,外からよく見える角壁側だけでなく,裏側にも簡略な獣面文があることがわかった。前掲著録図本器のいかつい風格と大分異なる。著録によると一方の鼎は本体の周壁の外苑が四個の壁体に分かれているだけで単純な構成なのであり,当然外苑の合わせ目のトラプルも少ないはずであり,また風格も異なってくるのであろう。ちなみにもう一組の大方県は二器共,本器と同じ外苑分割によるものである(『文物』1975年6期64頁■68頁)。この由は1986年「黄河文明展」(東京国立博物館)に出陳されている。直接実見することができた。由は提梁付きの有蓋壺であるが,二里岡期では殆ど作られていない器種である。通高50cm(著録による)とこの器種として図抜けた大きさがあり,前述の大方県に器身半ば近くまで入った状態で出土している。器身に浅い沈線で,提梁の位置を挟んで背中合わせに大きく二つの獣面文が施されている。外苑は獣面文の正中線で分割されているようである。正中線の位置にある器体頸部の本来継ぎ目の無い繰り返し文の帯状文の中にも苑線を磨消した跡があるからである。提梁の各根元側にある文様単位の分かれ目は,左右から獣面の側面を描き終わって余ったままに放置してあるといった状態であり,苑線があった形跡は認められなかった。-92 -(2)由(H1 : 11)図2
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