鹿島美術研究 年報第6号
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文様の彫りが浅く,器形もどことなく,穏やかであるためか,全体の風格は,素朴であった。しかし,文様か整然と及んでいること,提梁の意匠,蓋鉦と提梁を連結する仕組みなどは,殷後期の一部の由と全〈同工であり,間も無く殷後期へ移行することを窺わせる青銅器である。殷後期にほぼ同エの例があるのは大方鼎も同様であることをつけ加えてお〈。著録によると,これら2点を含む13点の青銅器の出土地点に接近した位置の灰坑に,牛骨が少なからず発見されている点,13点の青銅器が狭い容蔵坑内に並べられていた様子,組合わせを考慮している点などから,祭祀に『黄河文明展」1986年より深い関係をもつ育銅器ではないかとするが,更に各器の突出した大きさや,由の存在,またその入念な装飾設計などからも,特別な事情の介在が察知される。大方県といい,鼎といい,当時の,即ち二里岡上層期の中でも高水準の青銅器の例である。国に関する青銅器中国社社会科学院考古研究所:(l)爵(75YLVIK3 : 4)図3爵は長い流口,その逆方向に突き出た三角に尖った尾,それらと直角の位置に把手を持つ三足器で,正面位置は把手の無い側である。陳例ケースでは,参観者に正面が向けられており,写真図版と逆であったため無文の正面を確認することができた。薄手でいかにも不安定なつくりである。この爵は,損壊が著しく,流口には先半分,尾把手,器身の多くを失っているが陳列品は修正復原して完形にしている。流口の付け根にある柱は著録では分かりにくかったが結局不明瞭な形,潰れたような形であることが確認された。この文の器形と文様は力強く的確で,同じ出土の(1)の爵が無文であり,不分明な器形であるのとは対照的であった。平板な武器である文は爵より一時期早く作られ初め図2南(1982年鄭州向陽H1 : 11) -93 -(3)文(75YLVIK 3 : 2)図5(2)爵(75YLIV採集)図4

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