し,量感の滅少,線の強調が判然とし,古代的特質は明らかに残存しているが,中世的性格に傾いている。中世的性格の現われ方には地域によって差があり,その点は充分注意する必要がある。しかしながら,目下問題となっている時期以後,インドのほぼ全域で美術制作活動が活発化し,古代のように制作が地理的に片寄ったり,地域差が顕著であったりすることが無くなり,地域間の交流もあって,地域ごとの地方様式は多彩ながら,インド全体が相似た歩調で美術を展開させるのも事実である。つまり,地方様式の多様な展開という点と,地域間の発達度に関する格差解消という点にも,中世インド美術の特質の一つがある訳である。従って,南北インドとも,美術展開の大筋においては等しいと言うことが出来る。以上に基づいて,古代と中世の境は,7世紀に求めるのが妥当であろう。7世紀のどこに境を置くかは微妙な問題であるが,時代区分が出来る限り他の分野とも共有し得るものであるべきと考えるので,中世的王の性格を持ちながら,古代的帝王の最後とも捉え得るハルシャ王の治世の終わりをもって,境とする考えを提唱したい。すなわち7世紀中葉を境として古代から中世へ移行すると考えるのである。これは政治史に基礎を置いてはいるが,美術の変化から見ても不合理ではないと思われる。よってグプタ朝が亡んだ5世紀中葉からハルシャの治世末年までをポスト・グプタ時代と規定し,同時に古代末期と名付けることが出来るであろう。古代末期に古代様式から中世様式への転換が本格化し,中世初葉を通じて中世様式が強まり,中世の有力王朝が成立した8世紀半ばには,中世様式がほぼ明確な姿を取るに至ったと考えられる。上に呈示した展開の枠組に従って,古代末から中世初期の間に制作されたが,制作年代が不明で,研究者によって見解の分かれる作例を検討した場合,従来よりも正しい年代論の議論がなし得るであろう。最も問題となる作例の一つがエレファンタ石窟の彫刻である。今日まで,この彫刻は8世紀の制作とされることが多かった。一部で6世紀とする説が提出されて何年か経過したが,8世紀説も根強い。エレファンタ石窟彫刻の制作年代に関して,見解がこのように大きく分かれるのは,偏にインド美術における古代・中世の区分と様式概念が明確にされていなかったからである。上の如く,時代区分と様式概念を規定するならば,エレファンタ石窟彫刻は,像の有する量感と抽象化されない自然な形態の点で,古代末期でも比較的早い作品として位置付けるべきであることが判る。また豪華な装身具を精緻に彫り出している点も,制作年代が古代末を下らぬことの証左となり得る。-98 _
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