る明治以降のガラス産業と工芸の展開をできるだけ多くの資料に基づき整理してゆくことを目的としたものである。江戸期のガラスは同じ時期の陶磁や漆器などに比べれば比較にならぬ程稚拙で,脆く実用にも不向きのものであるが,素朴でおおらかな味わいや,鉛分を含むために発する澄んだ金属音,見た目以上の重量感など理屈抜きに人をひきつける魅力を備えている。16世紀後半以降,西欧や中国のガラス製品に学びながら新たに始まった江戸時代のガラス製造は,驚くほど多種多様に展開してゆくが,結局,珍奇な玩弄物,あるいは趣味的な装飾品の域を出ることはできなかったと思わざるを得ない。が,江戸後期に生まれたいわゆる江戸切子のように,精緻なカットを施した厚みのある食籠や,組重などは(実用の上かららは問題点が多いが),幕末薩摩藩で完成されたいわゆる薩摩切子と並び,かなり高度な工芸的技術を示すものであった。しかし,ここで明治維新という時代の大きな転換を迎え,軌道に乗りかけたガラス工芸を充分に熟成させる暇を失ってしまったのである。ガラスも例外なく近代的洋式機械工業の洗礼を受ける。新しい近代国家の誕生でガラスの需要はきわめて実用的なものへと変化している。すなわち,舷燈用の色ガラス,ランプのほやと油壺,ビー)瑾瓦そして西洋建築の普及にともなう板ガラスの需要などである。総じて明治時代のガラス製作は,産業中心に展開してゆくことになる。西欧の進んだガラス製造技術が伝えられたこと自体は,当時の欧米とは比べようもない知識の不足と技術の未熟さを思えば,日本のガラスにとっての福音とも言うべきものだった。明治初期の市中には,時代が代わってもそれまでの江戸時代の方法のままガラス製作を続けていた職人たちが少なからずいたようであるが,その状況と言えば,原料溶解には炭を用い,炉も小さな均渦を石や土で取り囲む簡素なもので,共竿とよばれる細いガラス管の竿で種を巻きとり,成形して出来上がった品物は灰の中に置いて冷却させるというような細々としたものであったからである。しかし,その新しい技術と江戸時代に培われたガラス工芸とを結び付けて発展させてくることに目を向けていった人々はきわめて少なかった。ガラスの産業化への道のりは,しかし想像以上に困難を極めている。多くの場合,幼少の頃から奉公に出て,長い年月を費やして技術を身につけていった明治の先駆者たちが,新たな知識を得ることに情熱を燃やし,失敗を恐れず大志を貫いた足跡は感銘深いものがある。-100-
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