鹿島美術研究 年報第6号
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さて,民間の興業社から官営品川硝子製作所(途中,品川工作分局と改称),そしてふたたび民間品川硝子会社と度重なる経営難から二転三転しながらも,同所が日本のガラス史に残した足跡はかけがえのないものである。職エとして,それまで江戸や大阪でガラス製造を営んでいた職人を雇いいれ,イギリス人技師を招へいし,機械器具,増禍用粘土,築窯のための耐火煉瓦,主要な材料などことごとくイギリスから取り寄せての創業であった。ここで多くの日本人伝習生が,洋式埒渦の作り方,当時舶来吹きと呼ばれた鉄竿による宙吹法,カット,グラヴュールの加飾法などを習得していった。舷燈用色ガラスや,イギリス系無色ガラス,あるいは色ガラスの食器,ランプのほや,油壺などを製作し,かなりの成果をあげている。ところが,品川硝子製作所時代に,一月の製品が,一年の需要を満たしてもまだ余りあるような状態であったというところに,創早期の硝子産業の苦労が偲ばれる。ガラスを生活の中で用いる習慣はまだ浸透しておらず,ランプのほやや油壺は,粗悪であっても,市中の工房が作るいわゆるジャッパン吹きの安物の方が売れていた。増大する輸入を食い止めるためにも,もっとも必要に迫られていた板ガラスの製造については,多くの資材を投入した再三再四の試みにもかかわらず,当時の職人の技量不足のためことごとく失敗に終わっている。紆余曲折の道を辿った日本初の洋式硝子工場であったが,将来豊かな実りをもたらす多くの種子を蒔いたことは周知の通りである。市中の小規模なガラス工房も大いに品川硝子製作所に学び,同所の出身者たちは,次の時代のガラス産業を担っていった。創造的な工芸という視点からは不毛の時代とみなされがちな明治,大正という時代は,まずガラスを実用に供する素材として鍛え上げるために多くの困難を乗り越えてきたと言えるだろう。今ではほとんど見られなくなっててしまった氷コップや金魚鉢,プレス(押型)の皿やラムネ瓶など雑貨ととらえられているガラス器の中に,たくましい実用の工芸の美を育んできたと考えられるのではないだろうか。ガラスの表面的な美しさを珍重した江戸時代とは明らかに異なり,生活の中でガラスの質感を実感する,新しい明治の美意識が生まれてきたのである。ところで,明治時代の工芸的なガラスの歩みを多少なりとも示して興味深いのは,ヨーロッパの万国博覧会に倣って明治10年に始められた内国勧業博覧会の審査報会書である。実用性の高い製品,量産化,質の向上と価格の低廉化を奨励する記述が多い中で,わずかに手工芸的な出品作品に対する評価もみられる。そのいくつかの例を要-101-

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