鹿島美術研究 年報第6号
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約してあげてみたい。明治14年第2回内国勧業博覧会熊崎安太郎の彫刻を施した鉢は,数年前に比べ著しい進歩を示しているが,厚くて重く,しかも高い。明治23年第3回内国勧業博覧会東京から出品された切子模様瓶,杯,皿は精巧で熟練の技を示す。腐食ガラス板は浅深,透明度に変化があり,図柄が鮮やかに出ている。明治28年第4回勧業博覧会大阪から出品の切子細工は精緻でデザインもよい。明治36年第5回内国勧業博覧会島田孫市,駒井庄太郎,福永勝平,小出兼吉らの飲食器は,透明度,硬度の点で外国品よりかなり劣る。品質が良くないので切子などの装飾が光沢がなく生きない。岩城滝次郎のステンドグラスはまだ精巧とは言えないが今後の建築ガラスに一方向を開くだろう。同時代のパリやロンドンでの博覧会では,エミール・ガレやドーム兄弟などが数百点のガラス器を出品して多くの賞を獲得している。両者のガラス工芸の歴史の違いは歴然としている。日本では近代的な意味でガラスを新しい造形のための素材とみなし,独創的な創作を試みるのは,ようやく産業としての基盤が整いつつあった昭和に入ってからといえる。杉江重誠はその著『ガラス』(昭和8年)の中で,「現代のガラスはその驚くべき用途の開拓により,我らの文化生活はいやがうえにも光彩陸離たるものになった。しかしそれは余りにも実用的利用に急であって,ついにその工芸的利用が忘却されたかの感があった。」と記し,今やガラスが工芸品の材料として独特の性質を有することが認められ,ガラス造形芸術時代の新興を見ようとしていると述べている。まさに,岩田島七,各務鐵三が,帝展にガラス作品を出品し始めた頃である。その各務鎖三が『ガラスの生長』(昭和17年)の中で,伝統の助けがないこと,指導機関がないこと,また,ガラスは一定の設備を必要とするためいつもその経営に追われ,芸術的方面に力強く進出できなかったことを憂い,「学校を創設し,ガラスを再認識させてその知識を豊富にするような教育をしなければ,決して日本のガラス工芸は楽観できない。」と問題を提起している。それはきわめて示唆に富むもので,現在なお,今日的問題として考えさせられるものがある。-102-

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