゜゜好評を博したようで、創刊号および2号ともにすぐに売り切れ、再版されたようであった。ところで3号(大正5年9月1日発行)の編輯余録に興味深い記事がある。「十月号(4号)には紙面の半数を江戸の面影と題し現存旧蹟に関して興味ある文章と絵画とを掲載可仕準備致居候」。だが残念ながらこれは実現されなかったようだ(8号のみ未見)。「我邦現代に於ける西洋文明模倣の状況を窺ひ見るに、都市の改築を始めとして家屋什器庭園衣服に到るまで時代の趣味一般の趨勢に徴して転た余をして日本文華の末路を悲しましむるものあり」。明治36年に渡米し、同40年にフランスに帰って翌年帰国した永井荷風は、近代化によって変わり果てた東京の有様を見、「浮世絵の鑑賞」(『中央公論』大正3年1月)で、このように嘆いている。さらに「余はまたこの数年来市区改正と称する土木工事が何等愛惜の念もなく見附と呼馴れし旧都の古城門を取払ひ猶勢に乗じてその周囲に簗茂させる古松を濫伐するを見、日本人の歴史に対する精神の有無を疑はざるを得ざりき」と述べている。この「浮世絵の鑑賞」は、もはや浮世絵によってしか味わうことのできなくなった‘江戸”への郷愁が、浮世絵に仮託されたかたちで綴られているのである。先に述べた『江戸趣味』が江戸の面影を特集しようと考えたのは、このような状況があったからにほかならない。荷風や木下杢太郎らが小林清親の風景版画(明治9年■14年)を再評価するものもちょうどこのころであった。彼らは近代国家が奪っていった江戸の面影を、清親の描いた東京風景に求めていたのだった。明治40年に創刊される美術雑誌『方寸』は、自画自刻自摺を主張する創作版画運動に加わった石井柏亭らによって刊行された同人誌であるが、その創刊号に次のような記載がある。「浮世絵派を点検すれば、其処に一つのシンボリック主義の信者あることを発見致すべく候、ー百年前東洋の一隅に在て廿世紀西欧の志想界に共通したる頭脳を有するものは、我英泉に御座候、彼れは凄艶なる美人を描いて、憂愁なる人生の半面を表象せんと勉め候寸紙の版画にして、甚深に我等が心裡を突くものは彼の作品と存候」。-llO-
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