鹿島美術研究 年報第6号
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我等は日本の誇りとも云う可き此版式の衰へ行く姿を看過するに忍びない。『東京十—また明治43年8月刊行の『方寸』には、柏亭の「東京十二景」の広告が掲載され、柏亭の弁が記されている。「日本の木版がただ器用にばかりなって其本来の特質を忘れ、三色版など、無用の競争をして居ることは、一歩々々其死に近づくに外ならぬのである。浮世絵師と彫工刷工との協力によって曾ては善美を尽した彼江戸絵は今絵草紙屋の店先から消え失せた。景』の出版は日本木版をして其本領に帰らしむる運動の一つである。彼五渡亭国貞等の用ひた様式によって明治の東京が如何に記録され得可きか、習套を離れて如何に美人が描かれ得可きか、近代の写実と装飾的の線美と如何なる程度に於て相容れ得可きか、之等も亦此一組に於て試みられるのであらう」。日露戦争を境に哀退した浮世絵への関心は、皮肉なことに衰退とともに急速に広がり、文学者や画家たちも加わり盛んに評論されるようになる。とりわけ明治41年に詩人の木下杢太郎、北原白秋、画家石井柏亭を中心に結成された「パンの会」のメンバーのひとり石版画家織田一磨に浮世絵に関する著作が多いことも注目される。ところでパンの会は、下町情緒を拠り所に失われてゆく江戸情趣への愛着が色濃く写し出されており、当時の杢太郎・白秋の詩に明確にあらわれている。この会にはときに荷風も加わった。すでに指摘したように荷風の江戸趣味は「浮世絵の鑑賞」に述べられたとおりだが、のちの大正3年、『江戸芸術論』としてまとめられている。大正期の江戸趣味は、当然のことながら文学・演劇にも及んでいる。しかし浮世絵への関心がもっとも強かったように見受けられる。林忠正・若井兼三郎らによって優れた浮世絵版画はすでに海外へ流出していたが、村田金兵衛を会主とした展示会が明治末から大正初頭に盛んに開かれている。一方京都では肉筆板画展覧会が大和絵協会の主催で時を同じくして行われていた。浮世絵に関する著作も次つぎと刊行され、大正4年に『浮世絵』が創刊、同10年には『浮世絵之研究』が創刊されている。浮世絵版画の伝統を生かしながら、新しいスタイルを創り出そうと版元渡辺庄三郎によって新版画が生まれるのもこのころであった。岸田劉生や京都画壇の木村斯光らが、初期肉筆浮世絵を刺激剤として新しい画様式の創造を行った事実も見逃すことができない。111-゜

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