鹿島美術研究 年報第6号
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14. 12 • 3世紀における文殊五尊像の展開もとに成立した特殊な尊像形式である。その源初的な図様は晩唐期•9世紀の作であ研究者:東京国立博物館彫刻室長金子啓明研究報告:獅子に乗る文殊菩薩を中心に,四巻属像を配置する文殊五尊像は,特定の経典に依拠するものではなく,唐時代・8世紀に流行した,中国・山西省の五台山文殊信仰をる敦燈の白描画(パリ国立図書館蔵)にみることができる。しかし,その後,中国では五尊形式の文殊像が流行した形跡はなく,宋代の白描画を写したとみられる京都・醍醐寺本の図像が遺存するにすぎない。それに対して日本では,平安時代から流行し,鎌倉時代を通じて製作が隆盛した。その遺例は,12世紀前半の作と考えられる高知・竹林寺像を筆頭に,12■13世紀を中心に見い出すことが出来る。12世紀半ばの中尊寺経蔵像,山形・慈恩寺像。13世紀の奈良・文殊院像〔建仁3年(1203)快慶作〕,奈良・唐招提寺像〔旧奈良・竹林寺蔵〕,興福寺勧学院旧蔵の像〔現文化庁保管,康円作〕,宮城・新宮寺像。それに,正安4年(1302)作の奈良・西大寺像,貞和4年(1348)作の宮崎・大光寺像〔康俊作〕が知られている。このうち,慈恩寺像が童子像を,文殊院像が老人像(後補像)を失う他はいずれも五尊すべて残っている。また,京都・智恩寺には,騎獅文殊及二巻属像〔童子と御者〕が遺存する。(1) 文殊五尊像の成立騎獅文殊を中心とする四春属像。つまり,前方に配置される童子像と,獅子の手綱を引く壮年の御者像,後方の初老とみられる比丘像と,帽子をかぶる老人像は,現在,一般に善財童子,優填王,仏陀波利(須菩提),最勝老人と呼ばれる。しかし,『広清涼伝』巻下,慈勇大師条,『梁塵秘抄』巻二,仏歌,『阿娑縛抄』巻九九,文殊五字の項の記載から考えて,善財童子,子聞王,仏陀波利,大聖老人,とするのが適当である。山文殊信仰は『華厳経』の菩薩住所品に依拠するが,善財童子の名は,『華厳経』入法界品に説かれる,純粋可隣な童子で,文殊菩薩の教えを得て諸々の善知識を歴参するところから名付けられたものであり,子聞王は『華厳経』が西城・子閻国の僧・実叉難陀によって新訳されるなど,『華厳経』と深い関係にある子構]国の王であることから命名されたと考えられる。しかし,これらの名の付け方は根拠が薄弱で,すでに隋代から遺例のみられる既存の騎獅文殊・童子・御者像の三尊像をもとに,後世,五台山文殊と関係の深い『華厳経』を註索して,童子像と御者像に任意の関連性をもた-113-

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