鹿島美術研究 年報第6号
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る13世紀の宮城・新宮寺像の東北地方に所在する三例はいずれも一切経蔵に安置され,せて名付けたものと考えれる。その時期は,宋・嘉祐5年(1060)撰とされる『広清涼伝』巻中,菩薩化身貧女条と円仁(794■864)著の『入唐求法巡礼行記』の記戴かと御者のペアーは,「敦煙白画」には童子と鼻高の胡人の姿で表されるが,この組合わせは五台山文殊と同様に遊行・行道を旨とする伎楽の先導役(獅子,師子児,治道)にみられることが注目され,行道の先導役の類型的表現であったと考えられる。仏陀波利と大聖老人は,前者の訳とされる『仏頂尊勝陀羅尼経』の序に詳しく述べられている。仏陀波利は唐の儀鳳元年(676)に文殊菩薩を慕ってはるばるインドから流沙を経て五台山に訪れたバラモン僧で,ここで文殊の化身である老人と劇的な対面をして『仏頂尊勝陀羅尼経』をもたらすように説かれ,経を携えて再び五台山に入ったとされる。この仏陀波利と対面する老人が大聖老人である。仏教彫刻でこのような説話が造形として表現されることは極めて珍しく,表現に際しての作者の解釈の在り方が注目される。(3) 信仰と造形中尊の着衣がネ蓋福衣である点も共通している。このうち,中尊寺像は12世紀半ば頃に造営された宋版一切経蔵の本尊であっと考えられる。また,騎獅文殊がネ蓋福衣を纏う例は,文殊以外の菩薩像まで含めて,12世紀までの作例には見られず,中尊寺像と慈恩寺像をもって喘矢とする。また,両像は,右手に如意を持っていたと考えられる(ただし,中尊寺像は後補,慈恩寺像は亡失)。この着檀福・持如意の騎獅文殊像は13世紀以後にも例がない特殊な形式である。この種の遺例は,宋の版本や宋画の写しである日本の画像や白描画にみられ,中尊寺の場合,創建当初の経蔵が五台山南台経蔵閣を念頭において製作されるなど,伝統的に中国への強い憧景がみられることから,このような前例のない特殊な図像を基に製作されたと思われる。13世紀の着檀福衣像は,奈良・文殊院像,西ドイツ・ケルン市東アジア美術館像・奈良・西大寺像,福島・薬王寺像などがあるが,文殊院像は東京国立博物館の画像(宋画の写し)などのような,宋画をもとに製作されたものであり,他例でも何らかの形で宋画が意識されている。着ネ蓋福衣文殊像の儀軌的根拠としては,密教において知恵を司る仏母として信仰される般若菩薩と文殊との同体説が考慮される。例えば,『心地観経』報恩品に「文殊師利ら9世紀後半以後11世紀半ばまでとみられる。また,騎獅文殊の先導役を務める童子12世紀の作例のうち,岩手・中尊寺像,山形・慈恩寺像と慈恩寺と密接な関係にあ-114-

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