鹿島美術研究 年報第6号
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大聖尊。三世諸仏以為母。十方如来初発心。皆是文殊教化力」とあるが,この「三世諸仏以為母」の句は文殊.般若同体説にもとづくものである。図像的には般若菩薩は女性の着衣であるネ蓋福衣を纏っており,これが文殊にネ蓋福衣を着せる根拠になったと考えらる。また,文殊が一切経蔵に安置されるのも,文殊・般若同体説が根本にあったと考えられ,『覚禅抄』般若菩薩の項には『陀羅尼集経』に云うとして「如高座上安置経蔵。当心著之。当誦呪時。専想懸念一切経蔵」とあり,『中尊寺供養願文』経蔵の項には「文殊像者憑三世覚母之名。為一切経蔵之主」と記されている。ネ蓋福衣の文殊像が次代に至るまで,製作された背景には文殊.般若同体説が大きな役割を果たしたことは明らかであろう。騎獅文殊像の形状は,上述の中尊像などを除けば,京都・禅定寺像など10世紀の作例以来12世紀を通じて,上半身裸形で右手に剣,左手に経巻巻(または蓮華上経巻)を持つのが通例であった。13世紀に入ると,上半身は裸形と着饂福衣の双方がみられるものの,持物は再び,剣と経巻とする,儀軌に従った像が大部分を占めるようになる。13世紀の文殊像の中には,旧興福寺像のように不空訳『金剛喩伽文殊師利菩薩供養儀軌』などにみえる五髯・童子相の像が製作された点が注意される。旧興福寺像では童子相をとりながら,眉をややひそめることによって,文殊の「教化力」を表しており,四巻属を含め文殊五尊像のもつ内容を十分に検討して造形された様が窺える。四脊属像のうち,12世紀と13世紀の作例でその形が大きく変化するのは,善財童子像である。12世紀の,高知・竹林寺像,中尊寺像では唐衣を着,沓を履き,両手を腹部の前に出し,掌を上にして宝函を持すが,このスタイルは13世紀では,京都・智恩寺の騎獅文殊及二脊属像の一例が見られるだけである。宝函は文殊の性格からみて経巻あるいは梵爽を納めるものと推測されるが,両手を前に出して持物を執る例は,敦燈白画に先例(持物は香炉)があるように,童子像が『華厳経』入法界品の善財童子と関連づけられる以前の古態を示すものであろう。また,竹林寺,中尊寺の善財童子像は正面を向き,ほぼ直立の姿で表されれが,その表現は動的な13世紀のものとは著しく異なっている。それに対して,鎌倉時代の善財童子像は上半身裸形で,天衣・条吊を纏い,腕釧,足釧を着け,合掌し,裸足で立つのが一般的なスタイルであり,旧興福寺像のように,獅子に騎す文殊を振り返って見上げる作例もある。この姿は,『華厳経』入法界品の図様として一般化した形にもとづくもので,12世紀の静的なものとは異なり,文殊院像-115

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