12世紀の作例が静的であるのに対し,13世紀のものでは,よりリアルとなり,説明的や旧興福寺像など鎌倉的な動的な表現を示す例がみられるのが特色である。また,仏陀波利は,その説話内容からみて,旅姿,旅の苦難,文殊と喜び,文殊をう敬虔さなどさまざまな表現が可能であり,現存作例をみてもその表現は四春属のうちで最も多様である。竹林寺像の場合は文殊を面持ちで合掌する敬虔さを表現し,手に食料箱をさげて旅姿であることを暗示する。中尊寺像は微笑をたたえ,文殊との出会いの喜びを表すが,旅の軽装ではなく厚手の唐服を着ている。慈恩寺像はバラモン僧であることを意識してかやや異相を示し,左手に『仏頂尊勝陀羅尼経』をあらわす経巻を持つ。文殊院像は錫杖を執ることで旅を暗示するが,怪異な異相で表現されており,着衣はきわめて装飾的で,宋画の羅漢像にヒントを得て製作された可能性がある。唐招提寺像は肋骨の浮き上がった上半身を露わにし,錫杖を執り,眉をひそめて苦難の表情をあらわす。旧興福寺像は痩身の少老相ながら,錫杖を執り,口元を引き締めた意志の強さを表現している。以上のように仏陀波利の表現は多様であるが,で,心理描写も巧みとなるなど,時代の様式に呼応した表現となる。それは五尊全体の構成にまで及んでいる。ところで,12世紀では,中尊寺像にみられる経蔵文殊の信仰がみられ,13世紀にもその一部が引き継がれたが,13世紀の文殊信仰の中心になったのは叡尊・忍性を中心とする真言律宗のそれである。彼らは『文殊涅槃経』にもとづく非人文殊の思想を基本に据え,数多くの非人救済事業を行ったが,事業は二十五日の文殊縁日に実行され,法会の場は非人宿や墳墓の近くの寺が多いのが特色である。つまり,文殊信仰には死者の追善供養の意味が含まれていたと考えられる。例えぱ,叡尊の文殊信仰の一大モニュメントとなった,般若寺文殊五尊像造立について『般若寺文殊像造立願文』には,「妥有一霊場。称日般若寺。南有死屍之墳墓。為救亡魂之媒。北有癒癖之屋舎。得懺宿罪之便。1乃択此勝地。所奉安置也」とある。忍性の場合には,亡母追福の為に文殊菩薩像を製作しており,その根本には先にも述べた『心地観経』の文殊仏母説があったと考えられる。これは,亡母と文殊仏母との結合説があるが,亡母追福の文殊像製作は叡尊な信空,文観にも引き継がれる西大寺流文殊信仰の一特色であることが内田啓ー氏によって指摘されている。13世紀の文殊五尊像は,文殊獅子の桓座表面に海波を描く旧興福寺像,乗雲の唐招提寺像が示すように,概ね,光台院本画像と同じく渡海文殊の光景を表現したものと考えられる。叡尊,忍性らの真言律宗にとって,文殊-116-
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