ーー16.俊乗房重源関係寺社の調査年(1185)八月二十八日には大仏の開眼供養もおこなわれた。つづいて大仏殿の再建;年(1190)十月十九日,大材をもちいて大仏様と呼ばれる様式の大仏殿の上棟を行った。五尊像は減罪の威力を有するとともに,阿弥陀にかわる亡魂救済の尊として信仰されたものと考えられる。研究者:九州大学文学部教授平田研究報告:治承四年(1180)十二月―る南都は焼亡した。この東大寺の復興は,治承五年(1181)六月二十六日に東大寺造営の知識詔書が下り,造仏造寺長官に藤原行隆が任ぜられ,ほぼ時を同じくして大勧進として俊乗房重源(1121)-(1206)が任命されたことから始まる東大寺の大仏鋳造とそれを収める大仏殿建立などの一大事業の全責任を負うて大勧進職にあげられた源は,ただちに養和元年(1181)十月六日には大仏鋳造を開始し,宋人鋳物師陳和卿らを登用し,寿永三年(1184)六月二十三日には大仏の鋳造をほぼ完了させ,文治元という難事業にあたることになった。大仏殿再建に必要な材木調達のために,『玉葉』によれば,文治二年(1186)三月二一日に周防国を東大寺造営料にあて,重源をして国務を管せしめたという。重源は,文治二年(1186)四月十八日に番匠等を率いて周防国に下向し柚に入り,源頼朝は,文治三年(1187)三月四日に周防国の地頭等に東大寺造営の材木運搬を妨害せず精勤すべきことを仰せつけている。こうして重源は,前後五年の歳月をついやして建久元この大仏殿の建立に当たって重源が用材の選択,伐採を行ったのが周防国得地保であり,用材の運搬に利したのは佐波川であった。鎌倉時代の得地保と佐波川の中心をなすのは,現在の山口県佐波郡徳地町である。その点に着目して,九州大学文学部美学美術史研究室では,昭和六十三年七月四日から九日にかけての六日間にわたって,鹿島美術財団より「周防国重源事蹟の調査研究」(代表者平田寛)という課題で援助をうけて,徳地町にのこる重源関係寺社の調査を実施したので,ここにその概要を紹介することにする。ここに紹介する作品の美術史的,歴史学的評価や重源との関係については,今後個々JI II 日,平重衡の兵火により東大寺や興福寺を中心とす-117 菊竹淳寛
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