鹿島美術研究 年報第6号
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17. 12世紀における仏教彫刻の基礎的研究12世紀の仏教彫刻の諸相については,日記や記録類などから仏師の系譜や経歴は比較1130),賢円あるいは長円作かとみる説もある京都・安楽寿院阿弥陀如来坐像(保延年研究者:彦根城博物館学芸員斉藤研究報告:的よく知られているにもかかわらず,これまでその作品の実態について,なかなか明らかにされているとはいえないのが現状であった。きめ細かな検討の試みがされはじめたのは近年のことであるといってよい。この時期の作品はこれまで,円派や院派などのいわゆる藤末鎌初とよばれる定朝様の系列に連なる保守的な作品が大多数をしめる一方で,12世紀末葉に関東での造像や南都復興活動を契機に慶派の新様式がはなばなしく登場するとみられていた。保守的な作例は京都のみならず日本各地に伝存し,枚挙にいとまがない。試みに各地の調査報告書や展覧会図録をひもとけば,必ずその作例を見出すことができるといって過言でないのである。定朝以後の仏教彫刻の流れを概観してみると,大筋としておおよそ次のように推測される。すなわち,院派・円派では,11世紀後半の京都・法界寺阿弥陀如来坐像や,滋賀・浄厳院阿弥陀如来像などの定朝様に強く拘束された作風から,12世紀前半では円勢・長円作の京都・仁和寺薬師如来坐像(康和5年=1103),京都・高田寺薬師如来坐像(保安年間=1120■24),院覚作かとみられる京都・法金剛院阿弥陀如来坐像(大治5年=間=1135■41),京都・三千院阿弥陀如来坐像(久安4年=1148)などにみるように,定朝様を基底におきながらも,さらにあらたな摸索が行われた時期であり,12世紀も後半ともなると,京都・万寿寺阿弥陀如来坐像(永万元年=1165)のように,定朝様の規範を解き放たれて,その枠ではもはやとらえきれない新しい試みが行われるようになった。両派は同じ定朝を祖としているが,その作風には若干のニュアンスの違いがあったらしい。院派は浄厳院像・法金剛院像にみるような明快な表現に特色があったようであり,円派は,安楽寿院像・万寿寺像のような温和で柔らかみのある繊細な作風を備えていたらしい。南部では奈良・長岳寺阿弥陀三尊像(劣平元年=1151)の若々しい相貌や豊かな抑揚のある体躯,大ぶりで自然な衣摺表現に見られるように,整った定朝様の系列から一歩踏みだした新しい試みが行われ,以後,慶派では運慶作の奈良・円成寺大望-123-

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