鹿島美術研究 年報第6号
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は,実は既にプレヴィターリが提案しながら採用しなかった二つの解決法のうちのひとつなのである。何故彼は「熟知している師匠の様式を後になってくプリミティヴ>に模倣」したという可能性を示したあとすぐにこの考え方を放棄して,「師匠の構想をもとに同時期に実作した」と考えたのか。それはこの礼拝堂壁画の制作時期と深く関わっている。聖ニコラ礼拝堂装飾は,1307年のジュリアーノ・ダ・リミニの板絵と1308年のチェジの祭壇画がこの礼拝堂の使徒,聖人像を模倣していることを示したM・ミース(1960)の研究によって,1307-08年には既に完成していたと一般に考えられているため,プレヴィターリは前者の解決法を採らなかったのである。つまり彼は「聖ニコラの画家」をアッシジからパドヴァヘと様式発展して行くジオットの忠実な模倣者と見倣し,それ故にこの礼拝堂壁画を1300年から1310年頃というかなり長い期間の中で制作されたと考えているのである。もっとも彼のこうした意見に異を唱える研究者は多く,彼らは礼拝堂装飾はパドヴァ以前に短期間のうちに完成されたとしている(ボローニャ,ボスコヴィッツ,ボンサンティなど)。しかしパドヴァ以前に聖ニコラ礼拝堂壁画が描かれたという説にも異論がないわけではない。先ずJ・ガードナー(1969)がこの礼拝堂壁画にパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の最終段階の影響を認めて1305年以降としているのを始め,G・パルンボ(1969)はイントナコの接ぎ目の重なり方を根拠に,聖ニコラ礼拝堂内部の壁画は,その外側の『聖告』と「聖フランチェスコの奇蹟」よりも後だとして,ミースの1307年下限説を批判している。実際,先程帰属問題について述べたように,殆どの研究者が認める最下層部の使徒,聖人像に対するパドヴァの影響は勿論のこと,アッシジ上院の様式を色濃く残している「聖ニコラ伝」の場面にさえ,パドヴァの様式が反映しているのを,パドヴァ以前に年代設定する研究者は一体どう説明するのだろうか。『執政官を許す聖ニコラ』の画面右端の人物(図1)とパドヴァの『マリアの結婚』(図2)'『アデオダトゥスを解放する聖ニコラ』(図3)と『カナの婚宴』(図4)'そして松原哲哉氏(1988)も指摘している『溺れた少年を家に返す聖ニコラ』と『マリア降誕』の類似には,パドヴァからの引用を感じさせずにはおかないものがある。134-

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