期か,或いはその後に描かれたことを示唆するJ・ホワイト(1956)やC・ニューディ(1959)の説を敷術するかたちで,私は前にアッシジの後半場画が,パドヴァのモティーフや様式を反映していることを論じた(拙稿『アッシジ上院「璧7ランチェスコ伝」の制作年代』(1988)参照)。このことを踏まえるならば,パドヴァの影響を受けたアッシジ後半場面からモティーフを借用している「聖ニコラ伝」は,当然パドヴァ以後に制作されたと考えねばならない。つまり礼拝堂内で最初期に描かれたとされる「聖ニコラ伝」でさえ,バドヴァの壁画より後に完成したことになるのである。ところで,これはアッシジの後半場面にも当て嵌まることだが,では一体,パドヴアの様式はどのような方法で吸収されたのかという問題が生じて来る。プレヴィターリやパルンポの言うように,「聖ニコラの画家」は実際バドヴァヘ行ってジオットの助手を務めていたのだろうか。もしそうであるならば,ポスコヴィッツが疑問視するように,何故,パドヴァ以前の様式がこれ程にも残存しているのだろうか。私は先に,田中英道氏が問題として来た衣服の縁取り等に描き込まれた束洋文字を手掛かりに,ジオットの掃属問題を扱ったが(拙稿『ジオットの初期作品における帰属と年代設定』(1987)参照),この「聖ニコラ伝』のIコンスタンティヌス帝の処に現れた聖ニコラ』のカーテンの緑に見出される文字は(図7),ジォット工房のものとは全く別様であることが判明した。パドヴァと密接な関係にあるマッダレーナ礼拝堂壁画や右翼廊ヴォールトの「キリスト幼児伝」には,ジオットの描〈文字にかなり近図5-136-図6
元のページ ../index.html#162