図2いう絵本も出版している。小西雛三は,『日本美術工芸No.108』(1947)に「黎明期の大阪洋画壇」という一文を寄せ,ここで「四美術社」や,浅野孟府らによる「プロレタリア美術同盟」のことについて触れている。東京と同じく,大阪においても,この時代の風潮を反映した社会・思想的表現を標傍する動きが出ていることも記憶に留めておかねばならない。阪神間の美術界にあって,1920年代の流れを決定づけたとでもいうべき存在は,信濃橋洋画研究所であることには異論はない。しかし,その中心人物であった小出楢重がこの世を去った1931(昭和6)年,研究所は中之島の朝日ピルヘ移転し,それに伴って名称も「中之島洋画研究所」となった。1920年代のいわゆる「信涙稿の時代」は,小出楢重の死と共に幕を閉じたが,全関展は,新たに組織して陣容の整えられた全関西洋画協会のもとで,継続して開催されている。だが,阪神間の美術界の1930年代は,1933年の大阪新美術家同盟の結成によって,信浪橋イコールニ科会の時代からも飛躍しようとしていたと思われる。既に触れた「セクションダール」は,中之島洋画研究所に集っていた者同志で,新たに結成された団体であり,1935(昭和10)年に大阪新美術家同盟に参加していることからもわかるように,阪神間の1930年代は,大阪新美術家同盟を中心にして展開していったようである。1930年代も継続する全関展も,次第に信濃橋色一色で塗られていたものからの脱皮が行われていたに違いない。こうした洋画界の動向に加えて,阪神間にはまた,商業美術界においても特筆すぺき活動が見られる。この時代の阪神間の商業美術界をリードしたのが,今竹七郎である。今竹七郎は1927(昭和2)年,大丸神戸店がそれまでの呉服店から衣替えを行い,その名も百貨店となって新たな進出を企てたのと同時に,同店意匠部に入社した。今竹七郎も後の1943(昭和16)年,大阪新美術家同盟の第10回展(於大阪市立美術館)-147-
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