郎の世界—関西グラフィック・デザインの開拓者」展(1989年6月15日から8月13にく作品>と題する絵画を出品し,田川覺三らと共にこの同盟に参加している。当時今日活躍する洋画家たちの多くが,例えば百貨店の意匠部や宣伝部に所属していたことは周知のとおりであるが,こういった画家達によって,わが国のデザイン(当時の図案や商業美術)の胎動がもたらされていたことを忘れてはならない。百貨店の誕生が端的に示すように,1920年・30年代は,東京・大阪・神戸などの6大都市が拍車をかける大量消費の時代が開幕する。この近代都市化の波に乗るようにして,様々な商戦が活発化してゆく。百貨店の誕生は,この大量消費時代の幕明けを告げる象徴であり,ポスターや新聞広告の意匠に,近代デザインの萌芽が見出せるのである。神戸大丸からスタートを切り,その後大阪・高島屋へと移った今竹七郎は,恐らくわが国のグラフィック・デザイナーの草分けと呼んでも良いであろう。戦前の大阪の商業美術界が,確かに東京と比肩しても遜色のない程活況を呈していたのは,紛れもない事実ではあるが,戦後は,大阪のデザイナー達の多くが活動の場を東京に移していった。しかし,今竹七郎は戦後も阪神間の地に留まりながら,「デザインのモダニズム」の典型となる仕事を残している。さらに今竹七郎は,自らのデザインをイラストレーション化してしまうのではなく,並行して,手仕事としての絵画制作も継続し今日に至っているのである。その今竹七郎が,大阪新美術家同盟の展覧会にも出品していることに,当時の造形作家のあり方が表れているようである。今回の商業美術部門の調査では,この今竹七郎の60余年に及ぶ活動に的を絞り,わが国における「モダニズムのデザイン」が,阪神間の地から生まれていることを確かめた。その成果の一部は,筆者が勤務する兵庫県立近代美術館で開催される(今竹七日まで,絵画企画室で開催)へとつながった。明治以来,大阪においては,松原三五郎や赤松麟作が主宰する洋画塾などの活動が記録されているが,それらはいずれもアカデミックな指導の域を出るものではなかった。それに対し,1920年,30年代の信濃橋洋画研究所,全関展,新美術家同盟,商業美術界の状況は,進取の気風に富む前衛的性格をも有していたものであったと思われる。そして,これらの一連の活動は,阪神間固有の独特の文化現象の型を示していたと思われるのである。-148-
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