鹿島美術研究 年報第6号
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22.湯浅一郎研究20年義弟の蘇峰と民友社を設立,『国民之友』や『国民新聞』の創刊に加わり,第1回研究者:群馬県立近代美術館学芸員染谷研究報告:明治元年群馬県安中町(現安中市)に生まれた湯浅一郎は,京都の同志社英学校普通科を卒業後洋画を志し,山本芳翠の生巧館画塾に学んだ。明治29年東京美術学校に西洋画科が設置されるとその三年に編入,同年黒田清輝らの白馬会の結成に参加して,いわゆる外光派風の作品を白馬会に出品する。明治38年11月から43年1月まで渡欧。大正3年二科会の創立に参加し,昭和6年62歳で没するまで二科会に出品した。本研究は,湯浅一郎についてもその作品についてもこれまで十分な調査がなされていなかったことを鑑み,基本資料となるべき作品リストと,年譜並びに文献リストの作成を主眼に置いたが,ここでは,湯浅の生涯を略述しながら,その調査の途上に見いだされた新知見の幾つかを述べることとする。まず,湯浅一郎の人脈として,多くの傑物を生んだ湯浅一族に触れておく必要があるだろう。湯浅一郎の生家は,安中で醤油味噌の醸造販売を営む「有田屋」と称し,安中藩の御用商人を務めた家柄だった。父治郎は進取の精神に富み横浜港に出入りして南京米や魚油などの輸入販売を手掛ける一方,養蚕をはじめとした農業にも力を注いだ。明治5年「便覧舎」と称する施設図書館を創設,明治11年には帰郷した新島襄によってキリスト教の洗礼を受け,安中教会を創立した。明治13年県会議員に当選。明治17年から23年まで務めた県議会議長の時代,治郎は群馬県を我が国初の廃娼県とすることに尽力している。明治18年徳富蘇峰の姉初子と再婚した治郎は東京に居を移す。明治並びに第2回の衆議院議員に当選。その後師の新島襄の後を受けて同志社の経営に携わるため,政界を去り京都に転居している。父治郎は,最初の妻茂登子と後妻の初子との間に一郎を筆頭に14人の子をもうけたが,安中の家業は次男の三郎に継がせ,一郎には東京に家と土地を与えて,一枚の絵も売る必要のない生活を保証した。この理解ある父の存在があったればこそ,明治という時代に湯浅一郎が何不自由なく洋画家の道を進むことができたと言えよう。一郎の兄弟からは,同志社や国際基督教大学の総長を歴任した湯浅八郎などが出ている。父治郎の実弟で湯浅一郎には叔父にあたる吉郎の存在も,湯浅一郎の画業に少なか滋ほかー名(共同研究)-149

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