らぬ影響を与えたものと思われる。号を半月と称して,新体詩の先駆けを成した明治詩壇最初の個人詩集『十二の石塚』(明治18年,私家版)で知られる。明治10年20歳の時に同志社に入学,洗礼を受け,8年間にわたって英語と神学を学んだ。同志社では湯浅一郎と数年の重なりがあることになるが,京都での一郎の生活については何も分かっていない。吉郎は同志社卒業後アメリカに留学,6年の後明治24年に帰国,母校で旧約聖書文学を講じるようになるのだが,その後,京都府立図書館長を勤めるなどして日本の図書館学に多大な貢献をする。平家琵琶や南画など多趣味の人として知られた半月は,明治35年から大正の末まで続いた京都洋画家の集まり「二十日会」にも参加し,京都府立図書館内を会場とした,大正元年の「竹久夢二作品展」や大正4年の「歴代痕翰展」などの新古美術の展覧会も催している。このような多オな親族の中で,洋画家湯浅一郎は育った。しかし,湯浅一郎が洋画を志すようになった動機などについては分かっていない。同志社時代,将来について生物学か絵画かという迷いを持っていたことと,画家の道を選んだという噂が同志社の人々を驚かせたという話しが伝わっている程度である。山本芳翠の生巧館での勉学の様子は,湯浅自身「私の学生時代」(『美術新論』昭和3年10月)の中で,擦筆画を描いていたことやモデル探しに苦労したことなどの興味深い話を書き残しているが,この時代の湯浅の作品は現存しないようである。当時を伝える僅かな現物資料としては,明治26年に湯浅が得た賞状二通が残る程度で,ー等賞品に写生帳一冊,三等賞品に鉛筆ーダースを授与されている。明治27年,生巧館に代わって黒田清輝や久米桂一郎による天真道場が開設されると,湯浅一郎もそこに学ぶ。2年後,東京美術学校西洋画科選科3年に入学,同時に白馬会への出品も第1回から欠かしていない。この白馬会時代の作品の何点かは,現在群馬県立近代美術館などに収蔵されており,明治の香りが色濃く漂う興味尽きない作品群となっている。明治35年の第7回白馬会展覧会に出品されたと思われる「画室」(群馬県立近代美術館蔵)は,翌明治36年の大阪における第5回内国勧業博覧会にも出品されたが,石井柏亭の記すところによると「『湯浅一郎画集』序文,昭和2年,二科会),博覧会の出品に際して黒田清輝の助言により裸体のモデルに布片を加えて出品されたという。非常に面白いことには,その作品に布片を加える前の写真が安中の湯浅家に残っている。作品を前にして絵筆を持つ湯浅と上半身裸のモデルが写されたこの写真は,加筆以前-150-
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