鹿島美術研究 年報第6号
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の「画室」の証拠写真であるとともに,唖だったと伝えられる当時の貴重な裸体モデルの記録でもあり,また,湯浅のアトリエの様子を垣間見せてくれるものでもある。この写真と現在の「画室」を比べてみると,湯浅が黒田の助言によって描き加えたものが,上半身を覆う衣服とモデルの足元に落ちる花びら,そして「1903」という年記の入ったサインであったことが判明する。黒田の「朝敗」事件以来喧しかった裸体画問題を考える際に,一つの資料となるだろう。裸体画問題では,「モデル午睡」(群馬県立近代美術館蔵)も欠かすことができない作品である。これは明治36年の第8回白馬会展覧会に出品されたもので,黒田清輝や岡田三郎助の作品とともに特別室に入れられた。当時の作品名が「画室」となっていたことから,先に触れた現在の「画室」がその作品だと誤解されていたが,その誤りは正さねばならない。ともあれ「モデル午睡」は画家仲間からの評判も良く,日本人による日本人の裸体画が初めて描かれたと評価されている。次に明治35年8月に出版された『半月集』の装丁の仕事に触れておく。『半月集』は叔父湯浅吉郎の近代詩史における装丁を湯浅一郎が手掛けている。当時正倉院に残っていた残骸が復元製作された「笙哀」をモチーフに,「半月」が水面に照り返す夜の水辺で,「窒哀」を奏でる半裸の女性を描いたその表紙絵は,実は,アールヌーボーのポスターで評判だったミュシャの作品を借用している。生巧館画塾以来の湯浅一郎の友人である藤島武二は,同じ「笙篠」をモチーフとした作品「天平の面影」を同じ年に制作しているし,アールヌーボーの影需の強い『明星』の表紙絵でも知られている。湯浅が,和紙に墨で描いたグラッセ等の模写も現存しており,『半月集』の表紙を含めて,この時期の西洋絵画の我が国への影聾を示す好例と言えるだろう。湯浅のみならず,我が国の洋画家の画歴を考える際に一番興味を引かれる点は,本場の西洋絵画の影聾とその摂取の方法であろう。湯浅一郎は,明治38年の末から43年の年頭まで正味4年間の滞欧を経験している。今回の調査研究では,これまであまり詳らかにされていなかった湯浅の滞欧の足取りを,現存する書簡等によりある程度明らかにすることが出来た。最初スペインに上陸してベラスケスやムリリョの模写等に1年半を費やし,その後パリに出るという当時としては変わった経路をたどった湯浅だが,スペインでの勉学がその後の湯浅の作風にどのような影響を及ぼしたかは明確ではない。ともあれ,パリに出た湯浅は山下新太郎や有島生馬と交遊し,帰国後の—を不動のものにしたと評価される詩集で,その-151

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