科会結成の人脈交流の下地を作る。帰国した湯浅一郎は,最後の白馬会展覧会となった第13回展に,藤島武二とともに滞欧作を展示,滞欧中に開設されていた文展には二度出品しただけで何故か積極的に加わることはなかったようだ。この時期の湯浅の心境を物語るものは今のところ何もない。大正2年朝鮮ホテルの壁画制作のため,山下新太郎とともに韓国に渡る。翌大正3年二科会結成に参加。「二科会員中最も二科的でない作家」(後藤福次郎『洋画及び洋画家』昭和2年)などと評されながら,後半生を二科会とともに送った湯浅一郎は,昭和2年の第14回二科展で還暦を記念する回顧陳列を行い,同時に『湯浅一郎画集』を二科会から発行する。カラー図版1点とモノクロ図版52点を掲載したその画集は,湯浅の生前の唯一のものであり,今でも基本資料と言える。(これ以外には,昭和52年に群馬県立近代美術館で開催された「湯浅一郎を中心とした近代日本洋画展」におけるカタログがある。この展覧会には油彩,水彩,素描の計42点が出品され,カラー図版6点とモノクロ図版36点が掲載されている。)昭和6年に死去した湯浅は,その年の第18回二科展に遺作20点を出品しているが,同じ年に亡くなった二科の俊英小出楢重の遺作の陰に隠れて,それほど世間の関心を引くこともなかったようだ。とは言うものの,湯浅一郎の画歴は我が国洋画史の本流に沿うもので,歴史の表舞台で華々しく活躍することこそなかったが,その画業の調査研究は,必ずや,明治大正の我が国近代洋画史の研究そのものに貢献するものと思われる。注記:本研究における資料調査報告は,群馬県立近代美術館発行の「群馬の森・美術館ニュース」に連載継続中。23.近世初期の料紙装飾について研究者:大和文華館学芸部員中部義隆研究報告:慶長年間(1596■1615),すなわち,16世紀末から17世紀初頭にかけて,料紙装飾には注目すべき動向が見られる。この時期には,俵屋宗達の作と推定される肉筆金銀泥絵が描かれ,平安朝以来久しく途絶えていた唐紙料紙が復興し,さらには,木-152
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