を置いて近景と遠景を対峙される構図などには,ボストン美術館の風雨舟行図や東京国立博物館の山水図などの夏珪の山水図に通じる趣きがあり,そのもとになったのが,こうした南宋の院体画であった可能性が考えられる。ところで,前述のように,この浄土五祖絵は澄円の企画に基づいて制作されている。澄円は堺の出身で,律・華厳,真言,天台を習学した後,浄土門に帰した僧で,夢窓疎石の『夢中問答』に示された浄土門に対する考え方を徹底的に批判した著書『夢中松風論』にみるように,博学多弁なことは,当時の浄土僧の中で一頭地を抜く異色の存在であった。澄円は,正中二年(1325)に入元し,慮山東林寺の優曇普度に師事して慧遠流の浄土教を学んだのち諸方を巡歴し、嘉暦四年(1329)に帰朝している。このとき,澄円が請来した文物の中に,明らかに水墨画もしくは山水図と知られるものはないが,記録の性格上宗門関係に限ったもの(「将来三宝目録』という)であり,請来品の中に水墨山水図の類があった可能性は否定できない。というよりむしろ,この浄土五祖絵の制作の年代が澄円(応安五年・1371歿)の晩年に比定できることからしても,その手元にあった請来画がこの画中画に摂取されたと考えたい。画中画に請来水墨画を摂取して描かれたこの浄土五祖絵では,本来の画面においても中国絵画の影聾が顕著に見られる。舞台が中国であることから,人物が唐風の装束を著け,そこに色彩豊かな文様が描かれるが,これは平安時代未期の吉備大臣入唐絵詞以来,日本の絵巻が用いてきた常套手段であって,特に問題とならない。けれども,例えば吉備大臣入唐絵詞が,,日本を舞台とする伴大納言絵詞と同様の画風で描いた樹木,もしくは高階隆兼が玄笑三蔵絵と春日権験験記絵との間で区別しなかった山岳の描写の中に影聾があることが注目される。先に画中画の画風の特色として挙げたもののうち,周縁から内に向ってぼかす土坂の表現,点描の樹葉などは,本来の画面の中にも見られる。土破には緑青や群青あるいは黄土を厚く施すため,水墨画とは異質の感があるが,輪郭部を濃くする点では同趣である。藤田美術館本善導巻第三段の持戒)の水辺の岩や,独歩する善導の背後の土坂などはその特徴的な部分である。この土域や山の表現では,渇筆の短かい墨跛も多用され独特の趣きをもつ。某家蔵善導巻第一段(山林修行)の,巌窟に施かれる墨跛はその典型的な例である。この墨跛は殆どの画面に見られるが,その技術には未熟な点が目立ち,この画家の本来持っていた技法でなかったことを窺わせている。一方,樹葉の表現についてみると,某家蔵善導巻第一段の山林修行者を囲む樹木の-157-
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