を提起しているといえる。九州の古い木彫刻仏には12世紀後半から鎌倉初期に比定されているものが多い。しかしながら,在銘像を改めて検討すれば,平安仏は12世紀半ばで既に定形化が著しく,文治3年(1187)まで本格的木彫在銘像の例をもたない。臼杵の石仏をはじめ,国東半島の石仏群,無銘の木彫仏群などの制作については,地域的には的確な規準作がないまま,畿内の作品を念頭において判断されているのである。この12世紀後半の,いわゆる「藤末鎌初」の彫刻史の展開において,畿内ではなだらかに鎌倉時代様式に移り,九州では空白的な過渡期をもつという相対的な在り方をみせる。仏像では数に劣るとすれば,同じ時期の同じ作善にかかわる埋経遺品の在銘経筒にみればなお一層明確な状況をみせ,九州の12世紀前半と後半の落差の大きさには驚かされる。対外交渉の玄関口にあって,大陸文化移入の接点であった北部九州において,宋文化の移入時期にこのような状況であることの解釈が必要となろう。そこには,大宰府機能の衰退,あるいは貿易体制における畿内と九州の関係など複雑な問題を背後にひかえているようである。その在銘像空白時期を埋める無銘像群の想定も考証のひとつである。藤末鎌初の平安仏の九州における展開を知るために,在銘作品の出現を切望して久しいが,佐賀県歓喜寺の承安2年銘銅板鎚起薬師如来像の異例な材質や技法のもの以外に,未だ新たな発見はない。平安時代から鎌倉時代への転換において,在銘像からみる空白を埋める木彫像ではないかと考えられる一木彫成の木彫群が浮かび上がったが,内剖もなく,足部の朽損や鉢部の補彩など銘記に期待もできないものが多い。今後は関連記録の検索や像様の細部検討を行いながら,あるいは年輪測定などによる方法も試みる必要があろう。2.鎌倉時代大分県永興寺の文治3年(1187)銘木造毘沙門天像が平安様式から鎌倉様式への展開をみせてくれる。13世紀前半では在銘像12件をあげ得るが,在地的な平安時代像の鎌倉様式への変化の像が早期に2,3例みられる。しかし,やがて鎌倉新様式の彫像にとって変わられ,13世紀後半は殆ど鎌倉様式の新味の少ない定形的な像が並ぶ。ここでも問題になるのは,現在九州の寺院に伝えられている鎌倉時代前半の仏像に160-
元のページ ../index.html#186