鹿島美術研究 年報第6号
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ついて,はたして造立当初から九州にもたらされていたかどうか証明の手だてに欠けることである。このように伝来についで慎重になるのは,鎌倉仏の場合,寺院の創立より古い仏像に出合うことがしばしば経験されるからである。かえって平安仏を伝えている寺院では,旧密教寺院の転宗に伴って旧尊像を受け継いだ状況がうなづかれる。そういう問題のある九州の鎌倉時代銘仏に,制作年と安置の場所とを体内に記した仏像を調査する事ができた。それは九州から遠く福島県に運ばれ三春町の光岩寺本尊として祀られていた3尺阿弥陀像である。弘安3年(1280)肥後国宇土郡内馬瀬といい,寺院名も仏師名もないが確実に制作当初から九州に安置され,後に慶長5年有明海対岸の長崎県高木郡多比良用林寺に移座されて修理されたことも修理銘墨書でわかる。通常の安阿弥様阿弥陀如来像であり,矧ぎ目が緩み損傷もあるので,奈良市のエ房で修理されているものを,調査することができたのは幸いであった。その後は南北朝時代まで,形式化された鎌倉様式の像が九少卜1へもたらされ,あるいは在地的な仏師と云われるエ人たちが制作した仏像が遺されている。康俊らの作品が九州にもたらされている。康誉が五代を名乗るのに対して,康俊がはじめ五代を名乗り,後に六代と記すようになることについては,九州所在の宮崎大光寺文殊渡海像からも推察できたが,最近から1358年までの間に六代と名乗りを変え,その間の事情に興味がもたれる。この度の銘文収集で康俊五代については,大分県実際寺釈迦如来坐像の江戸時代(貞享元年畿内で造られた仏像の九州への奉渡の状況は,仏像だけの輸送なのか,仏師が下向しての制作なのか,銘文から推察されるものはほんの僅かであるが,畿内中枢仏師のものは畿内工房で制作されて九州に送り込まれたものと思われる。しかし,周辺の仏師たちのなかに,九州のある地域をシェアとして,造仏発注がまとまったときに下向する仏師の系譜があったのではないかと推察させる一群が浮彫りにされてきた。そのひとつに,「湛」字のつく仏師たちの系譜がある。13世紀末(1294)の湛幸,湛前・筑後・肥前・肥後・対馬など西部九州に14世紀後半の半ばまであらわれる。あら14世紀の前半,鎌倉時代から南北朝時代にかけて,運慶五代,六代之孫と名乗る1684)修理銘に記されていたこともわかった。14世紀に入り湛真力咀且わり奈良仏師を名乗る。湛勝,湛秀,湛印などの名が,筑山円教寺末寺の如意輪寺如意輪観音坐像にはっきりと明記され,1351年161-

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