鹿島美術研究 年報第6号
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たに,この度の調査で,佐賀県東松浦郡玄海町普恩寺に暦応5年(1342)の湛勝作品を知ることができた。結縁衆の中心である源武はいわゆる松浦党であり,「湛」字仏師の作品が対馬や唐津辺りに多かったのも背後に松浦氏一統があることを示唆してくれた作例で,この度の調査成果のひとつである。3.南北朝から室町時代中世後半の在銘作品は,いわゆる地方的な作品で埋められている。畿内の作品が九州へはあまり流入してないようであり,その原因についても考察の必要を痛感した。従来,地方の俗人仏師などの出現によって需要がまかなわれることによるものとも考えたが,かえって中央作品の供給が少なくなることに原因があるようにも思われる。例えば,海上陸上を問わず,輸送における危険度の増大によって畿内への注文による輸送が容易ではなかったようである。そのことは,福岡県遠賀郡海蔵寺の馬頭観音坐像を三条仏所の祐尊に注文して,海上輸送を博多商人の宗金に依頼したことが縁起に語られているのも理由があろう。『老松堂日本行録』の著者で朝鮮の使節宋希環が航海を共にした経験から語るように,宗金は海賊との応接にも妙を得ていたということが思い出される。中世後半の在銘仏にあらわれる仏師を通覧すると,地域でのまとまりや系譜を示すものは少なく,移動するエ人という観点のあることを示唆しているのかも知れない。同一仏師の造仏が数例みられるのは,過去の調査の粗密の度合によるが,人吉の仏師日高民部少輔藤原秀永,寿清僧,大神金策,福岡の方では筑前に博多仏師,筑後に齋真士珍らがいる。中世,近世の身近な造仏と修理の仏師については徐々に明らかにされて行くことであろう。博多仏師については文亀3年(1503)から天正8年(1580)まで造立・修理・記録など15件が知られる。北は長崎県壱岐島に作品を遺し,東は遠賀川西岸の福岡県岡垣町で永禄9年(1566)に仏像修理,南は英彦山南麓に連なる大分県日田市戸山神社に筑前博多住人猪熊右京による5謳の仏像造立を確認,西は長崎県北松浦郡江迎町に薬師如来像を造立しているのをこの度の調査で新たに知ることができた。弘治四年(1558)源隆信を大檀那とし,「作者佛所猪熊治部丞藤原朝臣運貞」とあり,猪熊姓で,その作行はいわゆる中世末の地方仏師の技量である。博多仏師の受注範囲の広がりの背景についても興味がもたれる。-162-

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